『1BR‐らぶほてる』では、ラブホテルの一室という限定された空間を舞台に、一夜をともに過ごす男女の姿が描き出される。そこにはひと通り何でも揃っている。ふたりはジェットバスに浸かり、映画のDVDを借り、ルームサービスでピザやサラダを食べ、カラオケをやり、ゲームをやり、コスプレをやり、そして大きなベッドの上で何度もセックスする。彼女はラブホテルに住みたいとすら言う。
だが、ふたりはそんな時間を完全に満喫しているわけではない。セックスのときに彼女は好きだと言ってほしいとせがむが、彼にはそれが言えない。絶倫に憧れる彼は限界に挑戦するようにセックスに励むが、彼女はどうしてもイケない。その原因を男女のドラマから察することもできないわけではない。ふたりの間にはときどき気まずい空気が流れる。男には隠し事があり、女は薄々それに気づいているように見える。そして彼は翌朝、バスルームでそれまでとは違うもうひとつの顔を見せる。
ではこれは、好きだと言えない男とイケない女の感情の機微を描いた映画なのか。おそらくそれだけではないだろう。実は筆者は、この男女の姿を見ながら、アメリカの女性作家ギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』のことを思い出していた。デヴィッド・フィンチャー監督が映画化していることでも話題のミステリだ。
この小説では、ある夫婦の奇妙、というよりも異常な関係が浮き彫りにされていくが、ここで注目したいのは、物語ではなくそんな関係を成り立たせる要因だ。背景にあるのは、「どうしようもないほどに徹底した非独創的社会」が生み出す退屈であり、具体的には(少し長い引用になるが)以下のように表現されている。
「いまのぼくたちは、初めて目にするものがなにもないという、史上初の人類となった。どんな世界の驚異も無感動な冷めた目で眺めるしかない。モナ・リザ、ピラミッド、エンパイア・ステート・ビル。牙をむくジャングルの動物たちも、太古の氷山の崩壊も、火山の噴火も。なにかすごいものを目にしても、映画やテレビでは見たことがある、と思わずにはいられない。あるいはむかつくコマーシャルで。「もう見たよ」とうんざりした顔でつぶやくしかない。なにもかも見尽くしてしまっただけでなく、脳天を撃ち抜いてしまいたくなるほど最悪なのは、そういう間接的な経験のほうが決まって印象的だということだ。鮮明な映像に、絶好の眺め。カメラアングルとサウンドトラックによってかき立てられる興奮には、もはや本物のほうが太刀打ちできない。いまやぼくらは現実の人間なのかどうかさえ定かではない。テレビや映画や、いまならインターネットとともに育ったせいで、誰も彼もが似通っている(後略)」 |