すでに成功をおさめている舞台劇を映画化した「私に近い6人の他人」は、アメリカ人の階級意識を、実に巧みに風刺した小気味よい作品である。
アメリカ人の階級意識には、微妙で複雑なものがある。それは、ポール・ファッセルの「階級」やバーバラ・エーレンライクの「「中流」という階級」などを読むとよくわかるが、簡単に言えば、平等と成功の矛盾ということになるだろう。
平等の理念からすれば、階級などあるはずがない。
しかし、成功を納得させるためには証がいる。そこで、現実には、生活様式、服装、言葉などの違いが段差になって、上に向かう階段があり、同じ階段に立つ人々がコミュニティを作って、平等を確認しあうという暗黙の了解ができあがっている。この映画は、そんなことを踏まえてみると、非常に面白く見られる。
主人公の夫婦は、夫が美術商を営み、富をひけらかすかのように、セントラルパークを望むニューヨーク五番街の高級マンションに暮らしている。彼らの楽しみといえばパーティであり、この映画の物語そのものも、パーティのなかで彼らが友人たちに提供するとっておきの話題として綴られていく。
その話題の内容とは、ある晩の出来事だ。美術商の夫は、実は経済的な苦境に立たされていて、ひょっこり訪ねてきた南アに金鉱を持つ旧友に、自分の顔をつぶさないように借金をしようと四苦八苦していた。ところがそんなところに、見知らぬ黒人青年が闖入してくる。
彼は、ハーバードに行っているこの夫婦の息子の同級生で、偶然そばを通りかかったところで暴漢に襲われ、立ち寄ったというのだ。
本来ならそこで、夫婦は困惑するところだが、この青年は驚くべき話術の持ち主で、夫婦と旧友は、あれよあれよというまにその魅力に引き込まれてしまう。しかも、この闖入者のおかげで商談までまとまり、気をよくした彼らは、その晩の宿を提供する。が、それからがひと騒動。
明け方、気づいてみると、青年が男をベッドに連れ込んでいて、あわてて追いだすことになったのだ。
この出来事にはさらに後日談がいろいろあるが、とにかくこの夫婦は、苦境も乗り切ったということで、こんな話を楽しげに語りつづける。それはある意味では、自分たちのコミュニティで存在を再確認する行為とも言える。実際、夫にとってはその通りなのだが、妻の方は、
余裕たっぷりに話題を提供しながらも、何か落ちつかない気分に支配されていく。
その原因は、この出来事に凝縮されているといっても過言ではない。なぜなら、一方で彼らは、いかに上流を気取っても、圧倒的な富を持つ旧友とは違う上層中流階級で、下降の不安を打ち消す芝居に努めなければならない。また一方、黒人青年については後に、ただのごろつきで、
上の階級のノウハウを必死にマスターして闖入してきたことがわかる。
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