ミシェル・ゴンドリー監督の『ウィ・アンド・アイ』の舞台は、ニューヨークのブロンクス。とある高校の学期が終わり、夏休みを迎えようとする生徒たちがバスで帰宅する。この映画が描くのは、そのバスのなかで繰り広げられるドラマだ。
車内は最初はお祭り騒ぎだが、乗客が減っていくに従って空気が変わり、複雑な感情が浮かび上がってくる。メールやスマホの映像も様々な関係を物語る。そして、限られた時間のなかで主人公が変化していく。
この映画はゴンドリー(+ポール・プロック、ジェフ・グリムショー)が書いた脚本があるからフィクションである。フィクションではあるが、ブロンクスのコミュニティ・センター「ザ・ポイント」に集まる実在の高校生たちに時間をかけてインタビューし、アマチュアである彼らを起用しているという意味では、現実に根ざしたリアルな感情を引き出そうとする作品でもある。
こういうタイプの作品で重要になるのは、あらかじめ書かれた脚本と撮影の現場から生まれる空気のバランスだ。最近観た映画のなかで、そのバランスにうなったのが、小林啓一監督の『ももいろそらを』だった。この映画は一見すると、場の空気や即興性を重視し、長回しで高校生たちの感情を生き生きととらえる作品のように見える。しかし実際にはとんでもなく緻密に作り込まれ、その上ですべてが成り行きで、自然に見えるように演出されている。
もちろんそういう方法論だけが正しいということではない。決め事を最小限にとどめ、自発性や即興に委ねるのでもかまわない。要は混沌とした場面であろうが、整然とした場面であろうが、脚本や即興性やリアルといったことに対する作り手のスタンスが一貫していればいいのだ。それが作品の純度になる。
ところがゴンドリーのこの映画は、筆者の目には、いいとこ取りをして安易に繋いでいるように見える。ある場面では即興性に委ね、ある場面では脚本を優先する。その一貫性の欠如が生み出すぎこちなさと、青春映画で若者たちが見せるぎこちなさを取り違えている気がする。だから筆者はこの映画に爽やかさやリアルな痛みを感じないのだ。 |