この小説家のようにたちの悪い確信犯ではないものの、バックもまた、自分とチャックのプライバシーを虚構に取り込む。ところが、その虚構が演劇であれば、そこには必然的に役者という別の現実が入り込んでくる。バックは役者のオーディションで、チャックに似ているという理由だけで、芝居に関しては完全な素人のサムを選ぶ。こうしてバックは、現実の世界のチャックに対して、虚構の世界のチャックともいえるサムを見出す。
しかしもちろん、サムにはサムの現実というものがある。サムをチャックに重ねているバックは、そのサムの現実をも自分の虚構に取り込もうとして、厳しくたしなめられる。バックは虚構の世界でも孤立するかに見えるが、この演劇を作る作業を通して、バックの方も劇場の管理人ビバリーやサムの現実に取り込まれている。そして結果的には、チャックともう一度性的な関係を持つことよりも、それが重要なことになる。
子供時代という閉じた世界と現在という単純な図式のドラマであれば、バックが現実を受け入れるためには、閉じた世界を壊さなければならなかっただろう。しかし彼は結果として、虚構を通してその世界を少しだけ別の方向に広げ、社会という現実に踏みだす。その虚構の力がこの映画の魅力なのだ。
そのバックが児童劇場の『オズの魔法使い』に触発されるからというわけでもないが、この映画を『ベティ・サイズモア』と対比してみても面白い。インディーズ・シーンで注目されてきたニール・ラビュートが新境地を切り開いたこの映画は、やはり『チャック&バック』と共鳴する要素がある。ヒロインのベティは、夫が殺害されるのを目撃したショックで、憧れの昼メロの世界に完全に逃避してしまう。ドラマを現実として生き始めた彼女は、かつて結婚を約束したドラマの主人公と再会を果たすために、ロスに向かう。この映画には、『オズの魔法使い』の引用があり、ドロシーであるベティがエメラルド・シティを目指すというわけだ。
このドラマが興味深いのは、ベティがロスに着いても彼女の虚構はまったく揺らぐことがなく、逆に現実をずるずると彼女の世界に引き込むことだ。昼メロの物語すら、彼女の登場によってねじまげられていく。そんな彼女は、最終的に現実に目覚めても、ただ現実に回帰することはない。現実を取り込んだ虚構のなかで奮闘することによって、そこで大切なものをつかみとり、虚構の力で現実を凌駕していくのだ。
一般的には、虚構に引き込まれるというと、決してよいイメージは与えないが、アレンの近作、『ベティ・サイズモア』、そしてこの『チャック&バック』は、それをポジティヴかつ魅力的に描いているという点で共通している。なぜ魅力的なのかといえば、現代ではもはや揺るぎない現実など存在しないからだ。
チャックは、バックを現実に目覚めさせようとするが、そのチャックの世界も揺るぎない現実とは言いがたい。ショービズのメッカ、ロスでは、チャックが開くパーティが端的に物語っているように、表層的なステイタスばかりが先に立つ。華やかで、洗練されているようには見えても、表層に縛られ、画一化されてしまっているのだ。
この映画の作り手は、チャックとバックの関係に、意識してハリウッドとインディーズの関係を重ね合わせていると筆者は思う。チャックは映画ではなく音楽会社のヤング・エグゼクティヴだが、マーケティングに基づいてものを作り、商売をしていることに変わりはない。これに対して、バックの創作はきわめてインディーズ的だ。
映画の作り手がバックの個性を生かそうとしているのは、彼を最後までゲイという枠組みに押し込んでしまわないところによく現れている。バックがいつもしゃぶっているキャンディは、間違いなくペニスの暗示である。そんな彼を無理やり大人にするということは、キャンディとペニスの繋がりを断ち切り、彼をゲイという枠に押し込むことを意味するが、ビバリーもサムもあえてそういう行動をとろうとはしない。そして、この繋がりこそが虚構の力を生みだし、バックが現実に踏みだす糸口をもたらす。『チャック&バック』は、そんなインディーズならではの視点とセンスが際立つ作品なのである。 |