チャック&バック

2000年/アメリカ/カラー/96分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:『チャック&バック』劇場用パンフレット)
表層的な現実を凌駕するポジティヴな虚構の力

 『チャック&バック』』主人公バックは、子供の時代のまま時間が停止してしまったようなアダルト・チルドレンだ。しかも、かなりの重症というべきだろう。彼は、子供の頃にチャックとやった性的な冒険が脳裏に強く焼き付いている。そのために、10数年ぶりに再会したチャックに、抱擁を逸脱したきわどい仕草を見せてしまう。

 それでもまだ最初のうちは、純粋なバックに対するチャックの態度の方がやはり冷たく映る。ところが、バックがロスに引っ越し、チャックと婚約者を執拗につけ回すようになると、さすがに彼がストーカーに見えてくる。映画は、そんなバックが、彼なりの奮闘と挫折を経て、大人の世界に踏みだしていく姿を描いている。

 このバックの成長のドラマで最も興味深いのは、現実と虚構に対する視点である。チャックを追いまわすバックは、偶然目にした児童劇場に触発され、自分と彼の過去や現在を童話風にアレンジした戯曲を書き、劇場で上演しようとする。その芝居は、チャックにしてみれば、おそらくは嫌がらせ以外の何ものでもないだろう。しかしバックには、戯曲や演劇が重要な空間となる。

 それ以前の彼は、チャックを無理やり子供時代に引き戻そうとしてきた。彼が体現するアダルト・チルドレンやストーカーは、現実に対して完全に閉じた世界に存在しているのだから、それは仕方がない。演劇にしても、彼の目的に変わりがあるわけではない。しかし、子供時代と現在という単純な図式に、演劇というもうひとつの空間が絡みだすことによって、現実と虚構にねじれや転倒、飛躍が生まれ、バックが現実を受け入れていく糸口を作るのである。

 この現実と虚構の関係は、ウディ・アレンの映画の世界と対比してみると、その面白さがいっそう明確になるのではないかと思う。アレンは自分の作品のなかで、現実と虚構のせめぎあいを描きつづけてきた。虚構とは、劇中に盛り込まれた小説や演劇、映画の架空の世界であり、複雑な男女関係から生まれる勝手な思い込みなどである。

 昔のアレン作品では、登場人物がどんなに虚構に引き込まれても、現実の基盤は決して揺るがず、最後には現実に戻ってきた。ところが『重罪と軽罪』あたりから、虚構が現実を模倣しているのか、現実が虚構を模倣しているのか曖昧になりだし、現実は個人の選択に左右されるものに変わる。そして『ブロードウェイと銃弾』や『地球は女で回ってる』などでは、劇中の演劇や小説が現実を大胆に取り込むばかりか、時に虚構が現実を凌駕してしまうまでになるのだ。

 そんなアレン作品の流れを踏まえたうえで、ここでは特に『地球は女で回ってる』に注目してみたい。この映画の現実と虚構の関係には、『チャック&バック』に通じるものがある。主人公である売れっ子の小説家は、現実の世界のなかで周囲から孤立しかけている。というのも彼は、別れた妻たち、愛人、友人、家族のプライバシーをほとんどそのまま滑稽な小説の題材にしているからだ。

 映画はそんな主人公の現実の世界と虚構の世界を、別のキャストを使って対置するように描く。彼は現実を食い物にしながら、彼が創造した人物たちとともに、それがまるで現実であるかのように虚構の世界を生きている。つまり、彼は現実逃避していると同時に、彼が逃避した虚構の世界が一人歩きを始め、リアリティにおいて現実を越えてしまうのである。


◆スタッフ◆

監督 ミゲル・アルテタ
Miguel Arteta
脚本 マイク・ホワイト
Mike White
撮影監督 チューイ・チャヴェツ
Chuy Chavez
編集 ジェフ・ベタンコート
Jeff Betancourt
音楽 ジョーイ・ワロンカー/ トニー・マックスウェル/ スモーキー・ホーメル
Joey Waronker/ Tony Maxwell/ Smokey Hormel

◆キャスト◆

バック
マイク・ホワイト
Mike White
チャック クリス・ウェイツ
Chris Weitz
ビバリー ルーペ・オンティヴェロス
Lupe Ontiveros
カーリン ベス・コルト
Beth Colt
サム ポール・ウェイツ
Paul Weitz
 
(配給:K2/日本ビクター)
 


 この小説家のようにたちの悪い確信犯ではないものの、バックもまた、自分とチャックのプライバシーを虚構に取り込む。ところが、その虚構が演劇であれば、そこには必然的に役者という別の現実が入り込んでくる。バックは役者のオーディションで、チャックに似ているという理由だけで、芝居に関しては完全な素人のサムを選ぶ。こうしてバックは、現実の世界のチャックに対して、虚構の世界のチャックともいえるサムを見出す。

 しかしもちろん、サムにはサムの現実というものがある。サムをチャックに重ねているバックは、そのサムの現実をも自分の虚構に取り込もうとして、厳しくたしなめられる。バックは虚構の世界でも孤立するかに見えるが、この演劇を作る作業を通して、バックの方も劇場の管理人ビバリーやサムの現実に取り込まれている。そして結果的には、チャックともう一度性的な関係を持つことよりも、それが重要なことになる。

 子供時代という閉じた世界と現在という単純な図式のドラマであれば、バックが現実を受け入れるためには、閉じた世界を壊さなければならなかっただろう。しかし彼は結果として、虚構を通してその世界を少しだけ別の方向に広げ、社会という現実に踏みだす。その虚構の力がこの映画の魅力なのだ。

 そのバックが児童劇場の『オズの魔法使い』に触発されるからというわけでもないが、この映画を『ベティ・サイズモア』と対比してみても面白い。インディーズ・シーンで注目されてきたニール・ラビュートが新境地を切り開いたこの映画は、やはり『チャック&バック』と共鳴する要素がある。ヒロインのベティは、夫が殺害されるのを目撃したショックで、憧れの昼メロの世界に完全に逃避してしまう。ドラマを現実として生き始めた彼女は、かつて結婚を約束したドラマの主人公と再会を果たすために、ロスに向かう。この映画には、『オズの魔法使い』の引用があり、ドロシーであるベティがエメラルド・シティを目指すというわけだ。

 このドラマが興味深いのは、ベティがロスに着いても彼女の虚構はまったく揺らぐことがなく、逆に現実をずるずると彼女の世界に引き込むことだ。昼メロの物語すら、彼女の登場によってねじまげられていく。そんな彼女は、最終的に現実に目覚めても、ただ現実に回帰することはない。現実を取り込んだ虚構のなかで奮闘することによって、そこで大切なものをつかみとり、虚構の力で現実を凌駕していくのだ。

 一般的には、虚構に引き込まれるというと、決してよいイメージは与えないが、アレンの近作、『ベティ・サイズモア』、そしてこの『チャック&バック』は、それをポジティヴかつ魅力的に描いているという点で共通している。なぜ魅力的なのかといえば、現代ではもはや揺るぎない現実など存在しないからだ。

 チャックは、バックを現実に目覚めさせようとするが、そのチャックの世界も揺るぎない現実とは言いがたい。ショービズのメッカ、ロスでは、チャックが開くパーティが端的に物語っているように、表層的なステイタスばかりが先に立つ。華やかで、洗練されているようには見えても、表層に縛られ、画一化されてしまっているのだ。

 この映画の作り手は、チャックとバックの関係に、意識してハリウッドとインディーズの関係を重ね合わせていると筆者は思う。チャックは映画ではなく音楽会社のヤング・エグゼクティヴだが、マーケティングに基づいてものを作り、商売をしていることに変わりはない。これに対して、バックの創作はきわめてインディーズ的だ。

 映画の作り手がバックの個性を生かそうとしているのは、彼を最後までゲイという枠組みに押し込んでしまわないところによく現れている。バックがいつもしゃぶっているキャンディは、間違いなくペニスの暗示である。そんな彼を無理やり大人にするということは、キャンディとペニスの繋がりを断ち切り、彼をゲイという枠に押し込むことを意味するが、ビバリーもサムもあえてそういう行動をとろうとはしない。そして、この繋がりこそが虚構の力を生みだし、バックが現実に踏みだす糸口をもたらす。『チャック&バック』は、そんなインディーズならではの視点とセンスが際立つ作品なのである。

 
 

(upload:2002/01/03)
 

 

《関連リンク》
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