『バットマン ビギンズ』で複雑な背景を持つヒーローを再創造したクリストファー・ノーランは、この『ダークナイト』でバットマンという題材の可能性をさらに押し広げ、善と悪の関係を哲学的に掘り下げていく。しかも、論理だけではなく、視覚で表現しているところが凄い。
この映画の冒頭に描かれるふたつのエピソードを観れば、鍵を握るのが“マスク”であることがわかるだろう。
まず、ピエロのマスクをかぶり、ジョーカーに率いられた男たちが銀行を襲撃する。男たちはジョーカーの指示に従って、役目を終えた人間を次々に殺していく。その男たちには、金という目的があり、素顔があるが、究極のアナーキストであるジョーカーには、純粋な悪を象徴するマスクしかない。
場面が変わると、あるギャングたちの前にバットマンを装った偽者たちが立ちふさがり、やがて本物が現れる。このエピソードは、マスクに許される法を逸脱した自警の危うさを示唆している。そこにバットマンという存在をめぐる矛盾が生まれる。
バットマンが自警という手段で犯罪者を駆逐していけば、ジョーカーのように法ではなく彼に挑戦するものが現れ、彼が強くなるほど敵は悪辣になり、彼が守らなければならないはずの市民が逆に次々に犠牲になっていく。だから彼は、素顔で戦うことができる地方検事ハービーに期待する。だが、その希望の星は、ジョーカーの罠にはまり、顔の皮が半分だけ剥がれ落ち、復讐に駆られるトゥー・フェイスに変貌してしまう。
そんな3者が複雑に入り組むこの映画では、単純に正義が悪を倒しても、未来に繋がる勝利がもたらされることはない。マスクにはマスクで対抗し、決着をつけなければならない。バットマンは、トゥー・フェイスに素顔のハービーというマスクをかぶせることによって、正義を象徴する“ホワイトナイト”を再生し、自分は正義の素顔に法を逸脱した“ダークナイト”のマスクをかぶる。すべてをマスクで表現しきるところにこの映画の深さがある。
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