そんなイツォの心を動かすのがウシュルだが、カメン監督は単なる恋愛感情を描くために彼女を登場させているわけではない。ウシュルはまず、絶望ゆえに心や口を閉ざすイツォの代弁者となる。彼女は、この世界が緊張に満ち、誤った方向へと暴走し、人々の魂が病んでいると語る。イツォにはそれが痛いほどよくわかっている。
ウシュルはそんな世界の状況を踏まえた上で、精神の救済や解放について語る。特別な力を持ったある人物に出会い、真実に目覚めた彼女は、プログラムされた生を解除し、自由になるために努力しているという。しかし、肉体の治療で精一杯のイツォには、精神の次元に目を向ける余裕はない。彼の医師も信仰の重要性を認めているが、処方するのはあくまで肉体のための薬だ。彼は苛立ち、絵に集中することもできなくなる。
カメン監督は、そんなイツォの内面の変化を、音楽も絡めた独自の表現で描き出してみせる。イツォとウシュルは、ソフィア出身のバンドNasekomixのライブを見るが、バンドの演奏はその前のシーンから流れている。タクシーの運転手は、トルコ語で挨拶するような男女を快く思っていないだろう。そんな緊張をはらむシーンからライブに切り替わり、美しい歌声とウシュルの存在が重なる。
さらに終盤でも同じバンドの演奏を使って、対照的なシーンが繋がれる。夜の街を孤独に彷徨うイツォの横顔に音楽が重ねられ、ライブハウスに切り替わる。そこで歌声に聴き入る彼は、ウシュルに触れているように見えるだろう。そして、グールドのバッハが流れる夜明けの街で、イツォは不思議な体験をする。老人に導かれた彼は、窓からさしこむ淡い光のなかでまどろむ。彼の肩や膝に触れる老人の手は、ウシュルを覚醒させた人物のそれを想起させる。目覚めたイツォが目にするのは、おそらく幼い頃の自分の姿だろう。彼は浄化され、新たな世界へと踏み出していく。
カメン監督は、イツォ=フリストの人生を掘り下げるだけではなく、ゲオルギやウシュルを通して彼と対話し、祈るような気持ちで神秘的なヴィジョンを切り拓いた。だからこの映画には、凄みがあり、深遠な世界があり、私たちの心を震わせるのだ。 |