たとえば、スキンヘッドのグループは裏で政治家に金で操られて襲撃を繰り返していることがやがて明らかになる。兄弟の父親はいつも新聞やラジオ、テレビをチェックしているように見えるが、それは社会に関心があるからではなく、息子と向き合いたくないからだ。一方、食事中にチベット問題を話題にするなど、教養人であるように見えたウシュルの父親は、襲撃されたことで態度ががらりと変わり、ブルガリア人というだけで恩人であるイツォまで遠ざけるようになる。
政治や社会、家族に対するそんなカレフ監督の視点は、イツォを演じ、撮影終了間際に他界したフリスト・フリストフの存在と無関係ではない。彼は、深い絶望に囚われたこの幼なじみの実人生にインスパイアされて、イツォの物語を作り上げた。だからこの映画には、ドキュメンタリーのように生々しく、張り詰めた空気がある。
しかしその一方でカレフ監督は、ゲオルギとウシュルという架空の人物を盛り込んでいる。それは、必ずしも兄弟の絆や恋愛感情を描くためではない。ゲオルギとは、イツォが過去を見つめるためのもうひとりの自分であり、ウシュルとは、寡黙なイツォの代弁者であり、病んだ肉体に苦しむ彼の精神の力を呼び覚まそうとする使者でもある。
この映画には絶望の淵に立つ幼なじみへの深い想いが刻み込まれている。だから、尋常ではない凄みがあり、深遠な世界が切り拓かれているのだ。 |