現代アメリカ文学を代表する作家フィリップ・ロスの長編『ヒューマン・ステイン』では、主人公コールマンが講義中に口にした「幽霊(spook)」の一言から波紋が広がり、歴史を遡りつつ、人種や文化、教養、セックスなどをめぐる人間の苦悩が重層的に描きだされていく。
物語は、クリントン大統領の“不適切な関係”が全米の注目を集める98年の夏に始まる。その状況は、このように表現される。「国会、新聞、そしてネットワーク上など、スタンドプレー好きの独善的な連中――人を非難したり、嘆いたり、罰を与えたりしたくてたまらない輩――が至るところに現われ、声を張り上げて説教を始めた。(中略)彼らはみな、浄化という厳格な儀式を遂行したくてたまらなかった」
“浄化”は、この小説のキーワードになっている。コールマンもまたその標的となる。講義中に口にした一言だけが、政治的に正しいかどうかという短絡的な基準で判断され、人種差別主義者のレッテルを貼られる。そしてフォーニアと恋に落ちると、今度は、老人が欲に溺れ、無学で不幸な女を弄んでいると中傷される。ひとりの人間の存在や物語は完全に無視されることになる。
だが、実はコールマンを浄化しようとする人間にも苦悩がある。彼を糾弾して大学から追いだした学科長のデルフィーヌは、家柄から逃れるためにフランスを飛び出したが、彼女を評価しないアメリカに失望し、彼を憎みながら同時に惹かれてもいる。彼につきまとうフォーニアの夫レスターは、ベトナムの英雄を恐れるコミュニティのなかで孤立し、再度戦場に向かい、狂気と憎悪に囚われてしまった。
しかし彼らは、コールマンが黒人であることの苦悩を背負ってきたことを知らない。そして、この小説の最後の章が、「浄めの儀式」と題されているように、コールマンのなかでは、まったく次元の違う浄化が進行しているのである。
|