モーテルでフロント係として働く主婦レイラは、密かに宿泊客に身体を売っている。金に困っているわけではない。かといって刹那的な刺激を求めているわけでも、孤独を癒そうとしているわけでもない。やがて彼女は深刻なトラブルに巻き込まれ、少女時代のトラウマが明らかになる。
だが、原因と結果を単純に結びつけ、トラウマによって彼女の行動の謎がすべて解き明かされると考えてしまえば、この映画が切り拓こうとする世界は小さなものになってしまうだろう。
ヒロインの謎めいた行動と、この作品がカナダ映画であることは無関係ではない。には、カナダ的といえるテーマがある。カナダは隣国アメリカよりもさらに歴史や伝統が浅く、アメリカの物質主義の影響を強く受けている。
デイヴィッド・クローネンバーグがバロウズやバラードに通じるヴィジョンをいち早く視覚化したのも、ダグラス・クープランドが加速する消費社会を生きるX世代やデジタル世代のジレンマにいち早く着目したのも、そうした環境によるところが大きい。
さらに、カナダが国の政策としてきた多文化主義の影響も見逃せない。カナダの多文化主義は、アメリカの「るつぼ」型に対して「モザイク」型といわれるが、そこには落とし穴がある。異なる価値観を、どちらも同じように肯定しようとするために、よりよいものを選択できなくなるような相対主義や、他者と関わろうとしない個人主義が蔓延していく。
人々は自分の殻に閉じこもり、相対主義によって揺るぎないものが失われていく。たとえば、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『渦』のヒロインは、過剰なまでに無機的で人工的な環境のなかで、自分を見失いかけている。そんな彼女は、轢き逃げを契機に死や魚の生臭さにとりつかれ、自らの生死を水に委ねることが自己発見への突破口となる。
リン・ストップケウィッチ監督は、人工的な環境をあえて強調しようとはしないが、共通するテーマを扱っている。『キスト』(96)ヒロイン(本作と同じくモリー・パーカーが演じている)がネクロフィリア(屍体愛好)に走るのは、安っぽいパステルカラーの住宅における物に囲まれた生活よりも、動物の死骸の臭いや冷たさに現実世界との接点を感じたことが出発点になっている。
『沈みゆく女』のヒロインが背負うトラウマも、原因ではなく出発点と位置づけることができる。それは、表層的な物語の次元では平穏な生活に起こった不幸な出来事だが、深層では現実感が希薄な日常という幻影を拭い去る糸口となる。
彼女に本当に必要なのは、母親の死の真相ではなく死の揺るぎない感覚であり、死を象徴する森を抜けるとき彼女の前には現実世界が開けるのだ。 |