ジャケット
Jacket  The Jacket
(2005) on IMDb


2005年/アメリカ=ドイツ/カラー/103分/シネマスコープ/ドルビーデジタル・DTS・SDDS
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(初出:『ジャケット』劇場用パンフレット)

 

 

彼の人生は過去ではなく未来にある

 

 映画『ジャケット』を監督したのは、イギリス出身の映像作家ジョン・メイブリーだ。彼のこれまでの作品を知る人には、この題材の選択は意外に思えるかもしれない。メイブリーは、イギリス映画界で異彩を放った故デレク・ジャーマンにその才能を見出され、彼との様々な共同作業を経て、頭角を現してきた。そのジャーマンとメイブリーはともにゲイであり、彼らの作品では、セクシュアリティが重要な要素となっているが、この新作では、それが前面に出てくることはない。

 しかし、彼らのセクシュアリティやアイデンティティの探求は、肉体や性的嗜好として映像に現れるだけではない。彼らは、登場人物の内面や記憶を掘り下げ、ドラマではなく多様なイメージが交錯する映像言語を紡ぎ出し、直線的な時間の流れに束縛されない独自の世界を切り開いてきた。ジャーマンの代表作で、メイブリーが編集を手がけた『ラスト・オブ・イングランド』(87)やメイブリーの代表作『愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(98)は、その好例といえるだろう。

 『ラスト・オブ・イングランド』では、画家でもあるジャーマンがアトリエで創作する姿に、廃墟を彷徨う若者たち、古いホーム・ムーヴィーに刻み込まれた家族、不気味なテロリスト集団などの映像が重ね合わされ、社会に対する怒りや絶望、ノスタルジー、欲望や衝動など、複雑な感情が浮き彫りにされていく。映画は、「閉鎖された記憶が暗闇を徘徊する」というモノローグから始まる。

 イギリスを代表する画家ベイコンと彼の恋人でモデルでもあったジョージ・ダイアーの関係を題材にした『愛の悪魔』は、ベイコンがダイアーを失った時点から物語が始まり、記憶が再構築されていく。その冒頭には、こんなモノローグがある。「逆回しの爆発のように、思考やイメージ、思い出の断片が、爆弾の破片のごとく頭に飛び込んでくる。過去はパスティシュ(混成画)としてよみがえる」。

 さらに、二人の作家は、セクシュアリティに閉じこもることなく、より広い意味でアイデンティティというものに対する鋭敏な感性を持ち合わせている。『ラスト・オブ・イングランド』では、80年代の強引な改革によって切り捨てられた若者たちが、ゲイの立場と重ねられ、深い共感をもってとらえられている。『愛の悪魔』で、ベイコンの恋人となるダイアーは、ゲイとして描かれるだけではない。彼が、ベイコンの強烈な創造力に翻弄され、ベイコンを取り巻く社交的な集団から疎外され、自分を見失っていく姿が、大胆かつ繊細に表現されているのだ。

 そして、メイブリーがジャーマンから引き継ぎ、発展させてきた視点や感性は、ハリウッド映画であるこの『ジャケット』に生かされている。これは、存在を否定され、自分を見失ったジャックが、アイデンティティを探求していく物語であり、時間の流れに束縛されない独自の世界が切り開かれているからだ。


◆スタッフ◆

監督   ジョン・メイブリー
John Maybury
脚本 マッシー・タジェディン
Massy Tadjedin
ストーリー トム・ブリーカー、マーク・ロッコ
Tom Bleecker, Marc Rocco
製作 ピーター・グーバー、ジョージ・クルーニースティーヴン・ソダーバーグ
Peter Guber, George Clooney, Steven Soderbergh
撮影監督 ピーター・デミング
Peter Deming
編集 エマ・E・ヒコックス
Emma E. Hickox
音楽

ブライアン・イーノ
Brian Eno


◆キャスト◆

ジャック   エイドリアン・ブロディ
Adrian Brody
ジャッキー キーラ・ナイトレイ
Keira Knightley
ベッカー医師 クリス・クリストファーソン
Kris Kristofferson

ローレンソン医師

ジェニファー・ジェイソン・リー
Jennifer Jason Leigh
ジーン ケリー・リンチ
Kelly Lynch
見知らぬ若者 ブラッド・レンフロ
Brad Renfro
ルーディー ダニエル・クレイグ
Daniel Craig
-
(配給:松竹)
 
 
 

 この映画の前半部で、ジャックの前に広がるのは、人が人を信じたり、受け入れたりすることができなくなった殺伐とした世界だ。湾岸戦争の戦場で少年の姿を目にしたジャックは、救いの手を差し伸べようとする。だが少年は、彼を撃ち、瀕死の重傷を負わせる。車の故障で立ち往生しているジーンとジャッキーの母子に出会ったジャックは、車を修理するが、母親は彼を追い払うように車を出す。ヒッチハイクで旅を続ける彼は、いつの間にか殺人犯に仕立てあげられている。精神病院のベッカー医師は、彼を矯正治療の実験台にしようとする。患者のルーディーは、妻を何度も殺そうとして、病院に入れられた。そして、戦場でジャックを撃った少年は、重い病のために自由を奪われている。

 もちろん、少女のジャッキーが、ジャックに親近感を示したり、女医のローレンソンが、彼の病状を気遣うということはある。だが、彼女たちには、状況を変えるだけの力がない。運命の歯車は、ただただ悪い方向へと回転していくかに見える。しかし、そんなドラマには、運命を変える可能性を秘めた種が蒔かれている。それは、ジャックがジャッキーにプレゼントしたドッグ・タグ(認識票)だ。

 このドッグ・タグの意味は単純ではない。ジャックは、ジャッキーからドッグ・タグのことを尋ねられたときに、「自分が誰か忘れたときのために」と説明する。だが、この言葉には、皮肉な響きがある。ドッグ・タグに刻み込まれたジャック・スタークスとは一体何者なのか。この映画で注目しなければならないのは、ジャックという人間や彼の過去についてほとんど何も語られないことだ。ドラマには、彼の親も、兄弟も、友人も、恋人も登場しない。彼がこれまでどのような道を歩んできたのか、何の情報も提示されない。

 しかし、ドッグ・タグは別の意味を持ち、そこからユニークなアイデンティティの探求が始まる。ジャックは、クリスマス・イヴに未来へと旅立ち、成長したジャッキーに出会う。ジャックが彼女の部屋でドッグ・タグを発見するときには、すでに日にちも変わっている。ドッグ・タグによれば、12月25日は彼の誕生日であり、そんな日に彼女から、彼が1月1日に死ぬことを知らされる。その宣告は、ジャックにとって新たな始まりともなる。このドラマにおいて、過去を持たないに等しい存在だったジャックは、誕生日から新たな人生を歩み出し、限られた時間のなかでゼロからジャック・スタークスになろうとする。彼は、他者の運命に積極的に関与し、それを変えることで、自分を確認する。

 メイブリーは、世界を分かつ様々な境界を、皮肉な転倒を演出することで、巧妙に切り崩していく。ジャックは、戦場で頭部を負傷して一度死に、死体安置所の引き出しのなかで新たな生の可能性を見出し、再び頭部を負傷して二度目の死を迎える。過去のない男、あるいは実験台にされた男にとって、過去と未来、現実と妄想の境界には、もはや大した意味はない。そして、そんな境界を越えた空間からは、確かにジャック・スタークスの人生が浮かび上がってくるのだ。


(upload:2007/11/11)
 
 
《関連リンク》
デレク・ジャーマン・インタビュー ■

 
 
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