O [オー]
O  O
(2001) on IMDb


2001年/アメリカ/カラー/95分/ヴィスタ/ドルビーSR・SRD
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(初出:『O』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

心の闇の深さと物語の力

 

 映画『O』は、シェイクスピアの「オセロー」を驚くほど忠実に映画化している。もちろん、舞台が現代アメリカの学園に置き換えられているのだから、登場人物たちの社会的な地位や立場はまったく違う。にもかかわらず、ドラマは細かなエピソードまで原作をなぞっている。

 これだけ舞台が大きく変われば、それに合わせてエピソードに手を加えるのは自然なことだし、作り手としてはむしろ、そうすることによって現代的な解釈というものを示したくなるところだろう。ところがこの映画では、脚本、演出ともに、異なる舞台でいかに忠実に「オセロー」を再現するかということに、最大の関心が払われている。

 その狙いは何なのか。まず考えられるのは、シェイクスピアの古典が持つ普遍性を通して現代を描くということだろう。しかし筆者は必ずしもそうは思わない。『O』は、シェイクスピアの古典と現代との繋がりをどうとらえるかによって、そのアプローチの意味が大きく変わってくる。そういう意味で、ぜひこの映画と比較してみたい2本の映画がある。

 1本は、演出家ジュリー・テイモアが、シェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を映画化した『タイタス』である。古代ローマを舞台にしたこの映画では、ゴート族との戦いに勝利した武将タイタスと彼の手で自分の長男を生贄にされたゴート族の女王タモラを中心に、凄惨な復讐劇が繰り広げられる。

 ここで筆者が注目したいのは、その導入部だ。この映画は、現代のどこにでもありそうなキッチンから始まる。そこではひとりの少年が、テーブルにオモチャの兵隊や食品を並べて遊んでいる。ところが彼は突然、それらをめちゃくちゃに壊しはじめる。そして次の瞬間、少年はどこからともなく現れた甲冑の武将タイタスに抱きかかえられ、古代ローマへとワープし、悲劇の目撃者となる。

 これを現代と繋がる物語の普遍性を意味する表現と見る向きもあるだろう。しかしふたつの暴力はまったく違う。タイタスの世界の暴力は、深い悲しみや憎しみ、苦悩、欲望から放たれる。これに対して少年のそれは、衝動的で突発的だ。私たちにとって日に日に身近なものになりつつあるのは、後者の暴力である。少年がいるキッチンは、歴史も伝統もなく、画一化された日常を象徴し、そうした環境に完全に支配された現代に、古典の普遍性は必ずしも通用するとはいいがたい。

 そんな現代から見るとタイタスの世界は、どんなに残酷なドラマが繰り広げられようとも、ある意味で非常に健全に感じられる。なぜなら登場人物たちはそれぞれに深い闇を抱えているからだ。シェイクスピアは人間の持つ闇の深さを描きだし、私たちはそんな物語の洗礼を受けることによって、自己を抑制する意思を持ち、独自のモラルを培ってきた。


◆スタッフ◆

監督
ティム・ブレイク・ネルソン
Tim Blake Nelson
脚本 ブラッド・カーヤ
Brad Kaaya
撮影監督 ラッセル・リー・ファイン
Russell Lee Fine
編集 ケイト・サンフォード
Kate Sanford
音楽 ジェフ・ダナ
Jeff Danna

◆キャスト◆

ヒューゴ
ジョシュ・ハートネット
Josh Hartnett
デジー ジュリア・スタイルズ
Julia Stiles
オーディン マカーイ・ファイファー
Mekhi Phifer
デューク マーティン・シーン
Martin Sheen

(配給:ギャガ・ヒューマックス)
 


 しかし現代の画一化された生活は、開発が大地から闇の象徴としての森を奪ったように、内面の闇も奪っていく。そこで私たちは、いたずらに癒しを求めたり、無理に闇の領域を構築することで、心のバランスをなんとか維持しようとする。しかし、そのバランスは確実に崩れつつある。つまり『タイタス』の少年は、人間が本来持っている闇を取り戻すために古代ローマにワープするのだ。

 そしてもう一本の映画が、クリスチャン・レヴリング監督の『キング・イズ・アライヴ』だ。この映画では、アフリカの砂漠の真っ只中で孤立したバスの乗客たちが、「リア王」を演じだす。奇をてらったドラマと思う人もいるだろうが、彼らはまさに物語の力によって生き延びる。この映画には乗客以外にもうひとり、この苛酷な環境で生きている原住民が登場し、ドラマは「何が起きたのか、それを話して聞かせよう」という彼の言葉で始まり、彼の言葉で終わる。アフリカには口承文学の伝統があるが、彼もその語り部であり、物語の力に支えられている。そしてバスの乗客たちも、「リア王」の物語を生きながら、彼のようにその力に目覚めていく。不毛な砂漠は現代社会を象徴し、彼らは物語の洗礼を受け、内なる闇を取り戻すのである。

 『O』の監督ネルソンは、「シェイクスピアの深みのあるドラマを体現するためには、原作に立ち戻って、役柄を吟味する必要がある」と主張し、俳優たちは撮影に先立って「オセロー」の芝居の稽古をしていたという。このエピソードからは、映画の狙いが見えてくるように思う。もし古典が持つ普遍性を通してあくまで現代をとらえようとしたのなら、この試みには少し不自然なところがある。なぜなら、そもそも「オセロー」の登場人物たちは『O』のそれよりも明らかに年長であり、仮に年齢の問題を度外視したとしても、シェイクスピアの世界の深みを体現すれば、間違いなく突発的な衝動に駆り立てられるような現代の若者たちのリアリティからは遠ざかる。

 しかし、ネルソン監督はあえてそれをしている。その理由はもはやあまり説明の必要もないだろう。映画『O』は、現代社会のなかで失われつつある心の闇の深さと物語の力というものを浮き彫りにしているのである。


(upload:2002/04/15)
 
 

《関連リンク》
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