映画『O』は、シェイクスピアの「オセロー」を驚くほど忠実に映画化している。もちろん、舞台が現代アメリカの学園に置き換えられているのだから、登場人物たちの社会的な地位や立場はまったく違う。にもかかわらず、ドラマは細かなエピソードまで原作をなぞっている。
これだけ舞台が大きく変われば、それに合わせてエピソードに手を加えるのは自然なことだし、作り手としてはむしろ、そうすることによって現代的な解釈というものを示したくなるところだろう。ところがこの映画では、脚本、演出ともに、異なる舞台でいかに忠実に「オセロー」を再現するかということに、最大の関心が払われている。
その狙いは何なのか。まず考えられるのは、シェイクスピアの古典が持つ普遍性を通して現代を描くということだろう。しかし筆者は必ずしもそうは思わない。『O』は、シェイクスピアの古典と現代との繋がりをどうとらえるかによって、そのアプローチの意味が大きく変わってくる。そういう意味で、ぜひこの映画と比較してみたい2本の映画がある。
1本は、演出家ジュリー・テイモアが、シェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を映画化した『タイタス』である。古代ローマを舞台にしたこの映画では、ゴート族との戦いに勝利した武将タイタスと彼の手で自分の長男を生贄にされたゴート族の女王タモラを中心に、凄惨な復讐劇が繰り広げられる。
ここで筆者が注目したいのは、その導入部だ。この映画は、現代のどこにでもありそうなキッチンから始まる。そこではひとりの少年が、テーブルにオモチャの兵隊や食品を並べて遊んでいる。ところが彼は突然、それらをめちゃくちゃに壊しはじめる。そして次の瞬間、少年はどこからともなく現れた甲冑の武将タイタスに抱きかかえられ、古代ローマへとワープし、悲劇の目撃者となる。
これを現代と繋がる物語の普遍性を意味する表現と見る向きもあるだろう。しかしふたつの暴力はまったく違う。タイタスの世界の暴力は、深い悲しみや憎しみ、苦悩、欲望から放たれる。これに対して少年のそれは、衝動的で突発的だ。私たちにとって日に日に身近なものになりつつあるのは、後者の暴力である。少年がいるキッチンは、歴史も伝統もなく、画一化された日常を象徴し、そうした環境に完全に支配された現代に、古典の普遍性は必ずしも通用するとはいいがたい。
そんな現代から見るとタイタスの世界は、どんなに残酷なドラマが繰り広げられようとも、ある意味で非常に健全に感じられる。なぜなら登場人物たちはそれぞれに深い闇を抱えているからだ。シェイクスピアは人間の持つ闇の深さを描きだし、私たちはそんな物語の洗礼を受けることによって、自己を抑制する意思を持ち、独自のモラルを培ってきた。 |