小林政広監督が「年金不正受給事件」に触発されて作った『日本の悲劇』の主人公は、古い平屋に二人で暮らす老父とその息子だ。老父は自分が末期ガンで余命幾ばくもないことを知っている。妻子に去られた失業中の息子は、老父の年金に頼って生活している。
物語は、入院していた老父が息子に付き添われて家に戻ってくるところから始まる。その翌朝、老父は自室を封鎖して食事も拒み、残された息子は混乱に陥っていく。
この物語のもとになっているのは、111歳とされていた男性がミイラ化した遺体で見つかった事件だと思われるが、小林監督のアプローチは非常に興味深い。
映画には、3.11の悲劇や無縁社会、格差や自殺といった多様な要素が盛り込まれている。そうした現実に迫ろうとするのであれば、普通はこの事件の即身仏という要素は切り捨てたくなるところだろう。興味本位に見られかねないからだ。ところがこの映画では、即身仏が明確に意識されている。
江戸時代、湯殿山の行者は穀物を断って脂肪分を落とし、生きながら土の中に入った。そして、空気穴から漏れる鉦や読経の音が途絶えたとき断食死が確認され、やがてミイラとなった行者が掘り出され、即身仏として寺に祀られた。
この映画の老父は、冒頭で家に戻ってきたときからなにも口にしない。小林監督は計算された長回しによって、老父の心境とこれまでと変わらない親子の生活が始まると思っている息子との隔たりを表現している。
老父は、布団を敷いたり洗濯を始める息子に必要ないと語るが、息子にはその言葉の真意を読み取れるはずもない。そして部屋を封鎖した後は、安否の確認のため朝に一度だけ声をかけることを許す。もちろん返事が途絶えても息子にできることはない。そんな図式は即身仏の世界における土中入定に重なる。
しかも、この即身仏の要素は、老父の想いを表現する方法としてまったく不自然さを感じさせない。たとえば、『日本のミイラ信仰』で著者の内藤正敏は、飢饉と即身仏の関係に注目し、湯殿山の行者が穀物を断って木の実や野草を食べたのは、単に脂肪を落とすためではなく、それらが飢饉食であったからだと考えている。そして以下のよう綴る。 |