ところがその直後、子供たちの枕投げに飛び入りした彼女は、彼らに次々とのしかかられ、窒息しそうになる。怖がりの彼女は、明らかに激しく動揺しているが、それを隠して何とか平静を装う。しかし、彼女のなかでは子供との境界が揺らぎ、彼らのペースに巻き込まれている。彼女が子供たちに敏感になっていることは、翌朝、勝手に部屋に入り込もうとする彼らへの態度でもわかる。
そんな彼女は、マチューが現われたことで安心したような表情を見せる。彼が横にいれば、境界の揺らぎも収まると思うからだ。しかし、マチューに嫉妬したクレマンは、積極的に彼女を誘惑するようになり、ひとたび境界が揺らいだ彼女も、それを軽くあしらうことができなくなっている。そして翌朝、クレマンがドアの下から手紙を差し入れたときには、彼女は反射的に隣で寝ているマチューが目を覚まさないかを慎重に確認しているのだ。
■■境界線の崩壊■■
もし彼女が、夜の電話のときと同じように、手紙のことをマチューに打ち明けられれば、その後の展開も違ったものになっていたことだろう。しかし、彼女のなかで大人と子供の境界はほとんど崩壊しつつある。
つまり、これまで欲望など感じたこともない世界に対して、まったく心の準備もないままに新たな欲望が芽生え、その欲望が彼女という人間を規定しようとする。この映画は、新たな欲望が人間をいかに規定し、その人間を取り巻く世界がどう変貌していくのかを浮き彫りにしていくのだ。
それはもちろん『ロリータ』の世界に通じてもいるが、この映画の素晴らしさは、すでにその導入部について言及したように、物語ではなく、状況だけでそれを描きだしてしまうところにある。マリオンには、仕事があり、恋人もいて、何か満たされないものがあるわけではない。
というよりも、ベルコ監督は、彼女がクレマンにのめり込む理由を、背景から論理的に説明するような設定を必要としていない。彼女が重視しているのは、映画のなかで常に大人と子供の世界を対置させ、揺らぐ境界から浮かび上がる微妙な感情の動きをとらえることなのだ。
『ロリータ』で、ドロレスの家庭教師を引き受けたハンバートが、その立場を利用して妄想を膨らませていったように、新たな欲望が芽生えたマリオンもまた、確信犯ではないものの、結果的にふたつの世界の境界を利用することになる。パリのプールや週末に出かけた海辺で、大人と子供のスキンシップを装ううちに、彼女の欲望は確実に揺るぎないものになっていく。
そして、クレマンと親密になるに従って、マリオンを抑圧するようになる社会、そこに存在するふたつの世界の境界が、彼女の欲望を決定的なものにする。
たとえば、この映画には、彼女がクラブに行く場面が二度あるが、そこで起こる出来事は彼女とふたつの世界の軋轢を実に鮮やかに描きだしている。海辺のクラブで、子供連れだということで入場を拒否されたとき、彼女はヒステリックに喚きちらす。それは、彼女がすでに境界のない場所にいるからだ。
一方、彼女がクレマンに会いにいくパリのクラブは、酒を出さないことからもわかるように、子供専用の時間になっていて、彼女はその子供の世界からも排除される。彼女が海辺などでスキンシップを利用したことを察知しているブノワは、ダンスというスキンシップを装って彼女を振り回し、苛立ちをぶつける。その結果、彼女は喘息の発作を起こし、子供の世界で晒し者となるのだ。
■■欲望のズレ■■
恋に落ちたマリオンとクレマンは、お互いにふたりだけになることを求めていたが、それが現実のものになると、それぞれの欲望にズレが生じる。クレマンは、ブノワやマチューの存在を意識しながら求めていた彼女と、自分が独占し、冷静に見つめられる生身の彼女とのあいだに落差を感じ、態度を変える。彼は、時が経てば嫌でも大人の世界に踏み出さなければならないことを察し、限られた時間のなかにある本来の自分の世界に目を向け、そこに戻るといってよいだろう。
しかし、新たな欲望に規定され、その先にしか解放を見出せないマリオンは、そういうわけにはいかない。これまでの世界は彼女を抑圧し、枠組みに押し込もうとするものでしかない。彼女にとっては、大人と子供の境界や表層的なモラルに縛られないふたりだけの時間こそがすべてであり、彼女の心と肉体はもはや後戻りができなくなっているのだ。 |