なぜ彼女は愛しすぎたのか
Clement


2001年/フランス/カラー/132分/1:1.66/ドルビーSRD
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(初出:『なぜ彼女は愛しすぎたのか』劇場用パンフレット)

新たな欲望と、世界の変貌と

■■“ニンフェット”であるクレマン■■

 ナボコフの小説『ロリータ』では、中年男ハンバートが12歳の少女ドロレスの魅力にとり憑かれていく。エマニュエル・ベルコ監督の『なぜ彼女は愛しすぎたのか』は、この小説の男と女の関係を逆転させたドラマと見ることができる。

 『ロリータ』の語り手であるハンバートは、彼を魅了する少女についてこう語る。「ここで私は、つぎのような考えを披露したいと思う。それは、少女は9歳から14歳までのあいだに、自分よりも何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性をあらわすことがあるという考えだ。この選ばれたものたちを「ニンフェット」と呼ぶことにしよう

 『なぜ彼女は愛しすぎたのか』に登場する13歳のクレマンも、他の少年たちとは違う存在感を放っている。射るような、そして何かを訴えかけるような眼差し、挑発するような傲慢な態度、強い好奇心とおぼろげな不安の狭間で揺れる感情。彼には、人を惹きつけ、翻弄するような資質がある。

 一方、ハンバートとこの映画のヒロインであるマリオンの立場には大きな違いがある。ハンバートは、12歳のときに出会った少女アナベルの記憶に呪縛され、彼女の化身を求めつづけてきた。これに対してマリオンは、これまで少年を意識したことはなく、クレマンと出会ったことによって彼にのめり込んでいく。だが、ふたりの関係は、少なくとも以下のようなハンバートの定義から外れてはいない。

この問題では時間の観念が非常に魔力的な役割を果し、男がニンフェットの呪縛を受けるには、少女と男のあいだに、数年、私に言わせれば最低10年、一般的には30年から40年の年齢のひらきが必要で、少数だが90年もちがう例が知られているが、これとて、別に驚くにはあたらない。これは焦点の調節の問題であり、内面の目がおののきつつ越えるべき距離の問題であり、心が倒錯した歓喜にあえぎながら感じとるある対象の問題なのだ

■■大人の世界と子供の世界の境界■■

 そんな男女の関係を描くこの『なぜ彼女は愛しすぎたのか』で、まず注目しなければならないのは、大人の世界と子供の世界の境界をめぐる緻密な構成だろう。

 ベルコ監督は、その境界に立つマリオンとクレマンに手持ちカメラで迫り、視線や表情、肉体を通して欲望や心理を克明に描きだしていく。だが、その緻密な構成に気づくのは、おそらく中盤を過ぎてからだろう。マリオンが身動きできなくなっていくとき、積み重ねられてきた細部が意味を持ちだすのだ。

 特に映画の導入部、甥のブノワの誕生会に招かれたマリオンが、オーロール家に滞在するあいだに変化していく過程は、その構成が際立っている。まず彼女は、パリ郊外の家まで恋人のマチューに送ってもらうが、その時点ですでに境界が暗示されている。彼女が怖がりであることを知りながら乱暴な運転をした彼に、子供みたいだと激しく食ってかかるのだ。

 彼女を出迎えたブノワは、いかにも子供らしく彼女に抱きついてくる。彼女はオーロール家で無邪気にはしゃぎ、子供の世界に溶け込んでいく。そしてその晩、マチューに電話し、セックスの話ばかりしたがる子供がいることを半ば面白がって話す。その時点ではまだ、彼女のなかで大人と子供のあいだに明確な一線が引かれている。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   エマニュエル・ベルコ
Emmanuelle Bercot
撮影 クリステル・フォルニエ
Crystel Fournier
編集 ジュリアン・ルルー
Julien Leloup
 
◆キャスト◆
 
クレマン   オリヴィエ・ゲリテ
Olivier Gueritee
マリオン エマニュエル・ベルコ
Emmanuelle Bercot
ブノワ ケヴィン・ゴフェット
Kevin Coffette
フランク レミ・マルタン
Remi Martin
フランソワ ルー・カステル
Lou Castel
オーロール カトリーヌ・ヴィナティエ
Catherine Vinatier
マチュー ジョスラン・キブラン
Jocelyn Quivrin
モーリス ダヴィド・サアダ
David Saada
ジュリアン エリック・シャディ
Eric Chadi
パトリック イヴ・ヴェローヴァン
Yves Verhoeven
-
(配給:ユーロスペース)
 
 
 

 ところがその直後、子供たちの枕投げに飛び入りした彼女は、彼らに次々とのしかかられ、窒息しそうになる。怖がりの彼女は、明らかに激しく動揺しているが、それを隠して何とか平静を装う。しかし、彼女のなかでは子供との境界が揺らぎ、彼らのペースに巻き込まれている。彼女が子供たちに敏感になっていることは、翌朝、勝手に部屋に入り込もうとする彼らへの態度でもわかる。

 そんな彼女は、マチューが現われたことで安心したような表情を見せる。彼が横にいれば、境界の揺らぎも収まると思うからだ。しかし、マチューに嫉妬したクレマンは、積極的に彼女を誘惑するようになり、ひとたび境界が揺らいだ彼女も、それを軽くあしらうことができなくなっている。そして翌朝、クレマンがドアの下から手紙を差し入れたときには、彼女は反射的に隣で寝ているマチューが目を覚まさないかを慎重に確認しているのだ。

■■境界線の崩壊■■

 もし彼女が、夜の電話のときと同じように、手紙のことをマチューに打ち明けられれば、その後の展開も違ったものになっていたことだろう。しかし、彼女のなかで大人と子供の境界はほとんど崩壊しつつある。

 つまり、これまで欲望など感じたこともない世界に対して、まったく心の準備もないままに新たな欲望が芽生え、その欲望が彼女という人間を規定しようとする。この映画は、新たな欲望が人間をいかに規定し、その人間を取り巻く世界がどう変貌していくのかを浮き彫りにしていくのだ。

 それはもちろん『ロリータ』の世界に通じてもいるが、この映画の素晴らしさは、すでにその導入部について言及したように、物語ではなく、状況だけでそれを描きだしてしまうところにある。マリオンには、仕事があり、恋人もいて、何か満たされないものがあるわけではない。

 というよりも、ベルコ監督は、彼女がクレマンにのめり込む理由を、背景から論理的に説明するような設定を必要としていない。彼女が重視しているのは、映画のなかで常に大人と子供の世界を対置させ、揺らぐ境界から浮かび上がる微妙な感情の動きをとらえることなのだ。

 『ロリータ』で、ドロレスの家庭教師を引き受けたハンバートが、その立場を利用して妄想を膨らませていったように、新たな欲望が芽生えたマリオンもまた、確信犯ではないものの、結果的にふたつの世界の境界を利用することになる。パリのプールや週末に出かけた海辺で、大人と子供のスキンシップを装ううちに、彼女の欲望は確実に揺るぎないものになっていく。

 そして、クレマンと親密になるに従って、マリオンを抑圧するようになる社会、そこに存在するふたつの世界の境界が、彼女の欲望を決定的なものにする。

 たとえば、この映画には、彼女がクラブに行く場面が二度あるが、そこで起こる出来事は彼女とふたつの世界の軋轢を実に鮮やかに描きだしている。海辺のクラブで、子供連れだということで入場を拒否されたとき、彼女はヒステリックに喚きちらす。それは、彼女がすでに境界のない場所にいるからだ。

 一方、彼女がクレマンに会いにいくパリのクラブは、酒を出さないことからもわかるように、子供専用の時間になっていて、彼女はその子供の世界からも排除される。彼女が海辺などでスキンシップを利用したことを察知しているブノワは、ダンスというスキンシップを装って彼女を振り回し、苛立ちをぶつける。その結果、彼女は喘息の発作を起こし、子供の世界で晒し者となるのだ。

■■欲望のズレ■■

 恋に落ちたマリオンとクレマンは、お互いにふたりだけになることを求めていたが、それが現実のものになると、それぞれの欲望にズレが生じる。クレマンは、ブノワやマチューの存在を意識しながら求めていた彼女と、自分が独占し、冷静に見つめられる生身の彼女とのあいだに落差を感じ、態度を変える。彼は、時が経てば嫌でも大人の世界に踏み出さなければならないことを察し、限られた時間のなかにある本来の自分の世界に目を向け、そこに戻るといってよいだろう。

 しかし、新たな欲望に規定され、その先にしか解放を見出せないマリオンは、そういうわけにはいかない。これまでの世界は彼女を抑圧し、枠組みに押し込もうとするものでしかない。彼女にとっては、大人と子供の境界や表層的なモラルに縛られないふたりだけの時間こそがすべてであり、彼女の心と肉体はもはや後戻りができなくなっているのだ。

《参照/引用文献》
『ロリータ』ナボコフ●
大久保康雄訳 (新潮文庫)

(upload:2012/07/05)
 
《関連リンク》
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――『まぼろし』と『天国の口、終りの楽園。』をめぐって
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――『焼け石に水』と『夜になるまえに』をめぐって
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