ミルコのひかり
Rosso Come Il Cielo


2005年/イタリア/カラー/100分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:『ミルコのひかり』劇場用パンフレット)

少年たち、そして映画は何と戦うのか

 クリスティアーノ・ボルトーネ監督の『ミルコのひかり』の物語は、イタリア映画界の第一線で活躍する音響編集者ミルコ・メンカッチの実話がもとになっている。しかし、この映画は、伝記的な要素を前面に出した作品ではない。ボルトーネ監督は、ミルコの少年時代の体験に着目し、普遍的な物語を作り上げている。その物語の鍵を握るのは、子供の想像力だ。

 現実の世界のなかで困難に直面した少年や少女が、その豊かな想像力によって異世界を作り上げ、冒険を通して成長を遂げ、過酷な現実を乗り越えていく。現実と幻想が錯綜する世界のなかに重要な通過儀礼が埋め込まれたそんな物語は、映像作家にとって魅力的な題材となっている。

 たとえば、テリー・ギリアム監督の『ローズ・イン・タイドランド』では、少女ローズが、荒野のなかで孤児になる危機に直面する。孤立する彼女は、バービー人形の首や意味不明な言葉を話すリス、そして、魔女を思わせるデルと、彼女の弟で巨大なサメ退治に執念を燃やすディケンズなどに導かれるように、グロテスクな世界に踏み出していく。そして、異世界が現実を歪め、彼女は、生きていくために必要な新しい家族と出会う。

 1944年のスペインを舞台にしたギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』では、少女オフェリアが、母親の再婚をきっかけに、フランコ軍と抵抗を続けるゲリラの争いに巻き込まれていく。孤独な彼女は、森にある廃墟で牧神に出会い、試練を課せられる。それに耐え抜けば、彼女が魔法の王国の王女であることが証明されるのだ。牧神は彼女を悪夢のような迷宮に導く。しかし、その異世界は現実と繋がっている。彼女が試練を通して戦っているのは、実はファシズムという怪物であるからだ。

 さらに、ラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも注目しておくべきだろう。これは少年や少女の物語ではないが、フォン・トリアー監督は、森に住む孤独な少女が、苦難の果てに王子に出会う童話にインスパイアされて、この物語を作った。60年代初頭にチェコからアメリカに渡り、女手ひとつで息子を育てているセルマは、遺伝性の病のために視力を失いつつある。そんな彼女は、さらなる苦難に襲われ、極刑を宣告される。だが、彼女のミュージカルへの強い憧れが、異空間=ミュージカル仕立てのファンタジーを生み出していく。そして彼女は、想像力によって現実を捩じ曲げ、憧れの舞台に立つ超越的な瞬間を迎えるのだ。

 『ミルコのひかり』にも、そんなふうに想像力が現実を変えていく物語がある。事故で視力を失ったミルコは、全寮制の盲学校に送られる。心を閉ざし、孤立する彼は、やがて古ぼけたテープレコーダーに“ひかり”を見出す。録音したテープを切り張りすることによって、異世界を作り上げていくのだ。そこでは、幽閉された王女を救い出すために、彼女の兄弟たちが恐ろしい竜に戦いを挑む。そして、彼の音の世界はやがて、盲人の可能性を閉ざす制度を変えていくことにもなる。

 だが、この映画の場合は、困難に直面したミルコが、ひとりで異空間を作り上げるのではない。ミルコが盲学校で最初に親しくなるフェリーチェは、風や蜂の羽音のアイデアを提供する。王女とその兄弟たちの物語を創作するのも、ミルコではなくフランチェスカだ。つまり、音が仲間の輪を広げ、その輪から異空間が生み出される。異空間は、ひとりの主人公の内的世界だけにあるのではなく、共有され、広がっていく。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/製作   クリスティアーノ・ボルトーネ
Cristiano Bortone
共同脚本 モニカ・ザペッリ、パオロ・サッサネッリ
Monica Zapelli, Paolo Sassanelli
撮影監督 ヴラダン・ラドヴィッチ
Vladan Radovic
編集 カルラ・シモンチェリ
Carla Simoncelli
音楽 エツィオ・ボッソ
Ezio Bosso
 
◆キャスト◆
 
ミルコ   ルカ・カプリオッティ
Luca Capriotti
フェリーチェ シモーネ・グッリー
Simone Gulli
ヴァレリオ アンドレア・グッソーニ
Andrea Gussoni
マリオ アレサンドロ・フィオーリ
Alessandro Fiori
ジャコモ ミケレ・イオリオ
Michele Iorio
ジュリオ神父 パオロ・サッサネッリ
Paolo Sassanelli
エットレ マルコ・コッチ
Marco Cocci
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(配給:シネカノン)
 


 そんな共有される異空間の表現も素晴らしい。ミルコは、自然研究の作文の代わりに作った音の物語をフランチェスカに贈る。そのときには、唯一の聞き手である彼女が想像する光景が、映像として挿入される。しかし、ミルコと仲間たちが協力して童話劇を作り上げていくときには、音から想像される映像は最小限にとどめられる。彼らは、それぞれに想像力を駆使して異空間を生きているからだ。そして、学芸会の舞台では、もはやそうした映像はまったく挿入されない。その代わりに映し出されるのは、彼らを縛ってきた盲学校の光景だ。ミルコと仲間たちは、異空間の冒険を通して、その盲学校から飛び立っていく。彼らが戦う竜とは、校長であり、盲人の可能性を閉ざす制度であるからだ。

 しかし、それだけではまだ、この物語がいかに普遍的であるのかを語ったことにはならないだろう。ボルトーネ監督はこの映画で、決して障害者の問題を扱っているわけでもなければ、70年代初頭のイタリア社会を描き出そうとしているわけでもない。この映画の舞台となる盲学校と現代社会には、明らかに繋がりがある。

 盲学校の校長は、ミルコに付き添ってきた両親に、何をしたいかではなく、何ができるかだと念を押すように語る。彼は、盲人には自由はないという前提に立ち、実社会に出て失望を味わったり傷つくよりも、最初から盲人として決められた現実を受け入れて生きるべきだと考えている。この盲学校では、そんな考え方に基づいて、紡績工や電話交換手になるための指導をする。確かに、点字を覚えたり、技術を身につけることは大切である。しかし、この盲学校の方針には、人間性を否定するような合理化を見ることができる。各地からやって来た子供たちを、個性も能力も無視して同じ型にはめ、同じことをする労働者にして、送り出そうとするのだ。

 そんな盲学校の世界を見ながら筆者が思い出すのは、社会学者のジョージ・リッツアが書いた『マグドナルド化する社会』のことだ。この本のなかで明確にされているように、徹底した合理化=マクドナルド化は、生活を便利にし、多大な利益を生み出したが、それと同時に、消費者と従業員の脱人間化、コミュニケーションや個人の創造性の排除、均質化といった結果も生み出した。リッツアは、そのマクドナルド化の先駆けとなった作業ラインについて、以下のように書いている。「人間的な作業能力を発揮するかわりに、人びとは人間性を否定し、ロボットのように振る舞うことを強制される。人びとは作業のなかで自分自身を表現することができない」

 この記述は、そのままこの盲学校で行われていることに当てはまるだろう。盲学校の校長は、ロボットのような労働者を生産しようとしている。それは、障害者の問題ではないし、70年代初頭のイタリア社会で特別な意味を持つ問題でもない。合理化は、作業ラインに限らず、様々なかたちで私たちの生活に浸透し、人々から自由や想像力を奪っている。この盲学校は、そんな現代社会の縮図といえる。だから、ミルコと仲間たちだけではなく、私たちもまた、それぞれに想像力を駆使して、合理化に支配された世界から飛び立たなければならないのだ。

《参照文献》
『マクドナルド化する社会』ジョージ・リ ッツア●
正岡寛司監訳(早稲田大学出版部、 1999年)

(upload:2009/03/16)
 
《関連リンク》
『光にふれる』 レビュー ■
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 レビュー ■

 
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