映画『メメント』の主人公レナードは、妻がレイプされ、殺害されるのを目撃したショックで、前向性健忘という記憶障害になる。彼は事件以前のことは覚えている。しかし事件以後については、数分前の記憶が次々と消失していってしまうのだ。
それでも妻の恨みを晴らすためには、失われていく記憶を何とかして脳ではない外部にとどめ、再構築することによって、自分が置かれた状況を把握しなければならない。
神経科学者V・S・ラマチャンドランが書いた『脳のなかの幽霊』のなかに、こんなエピソードが紹介されている。きわめて難治性のてんかんに苦しむある患者が、左右の脳から病気の部分を除去する手術を受けたところ、手術前の出来事はすべて思い出せるのに、新しい記憶を形成することができなくなった。
手術で切除された部位のなかには、海馬と呼ばれる小さな組織が含まれていた。そのことから海馬が、記憶痕跡を脳に定着させるのに不可欠であることがわかった。
本書によると、慢性アルコール症や低酸素症が原因で同じタイプの記憶喪失になることも多々あるという。こうした患者は、損傷を受けたあとのことはなにも記憶されないため、こんなことが起こる。
「たとえば先週の新聞を毎日読んだとしたら、毎回まったく新しい新聞を読むように読む。推理小説も、何度もくり返して読める。プロットや意外な結末を何度でも楽しめるのだ。私が同じジョークを何回言っても、そのたびに落ちのところで心から笑う」
主人公レナードはまさにそんな状態にある。そこで彼は、外部に記憶をとどめるため、事件に関係する場所や人物をポラロイドで撮り、手がかりをメモする。そのメモも他人に改ざんされる不安があり、ついには情報をタトゥーとして身体に刻み込み、犯人を追いかける。
しかし、断片的な情報は矛盾し、謎は深まる。自分に近づく人間たちの誰を信じてよいのかわからない。記憶が次々と消失していくなかで、現実と虚構は入り乱れていく。
この映画の面白さがパズルやゲーム的な要素が生み出す複雑さにあると考える人は少なくないだろう。しかし筆者は、冷戦構造が崩壊し、なし崩し的なグローバリズムが世界を覆おうとする時代に、アメリカから生み出されるべくして生み出された映画であると思う。 |