毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト
Fur: An Imaginary Portrait of Diane Arbus  Fur: An Imaginary Portrait of Diane Arbus
(2006) on IMDb


2006年/アメリカ/カラー/122分/ヴィスタ/ドルビーデジタルSDDS・DTS
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(初出:「CDジャーナル」2007年6月号、若干の加筆)

 

 

不思議の国のダイアン

 

 異形の人々を被写体とすることによって、自己を見つめ、内面を掘り下げた写真家ダイアン・アーバス。スティーヴン・シャインバーグ監督の新作『毛皮のエロス』は、彼女を題材にしているが、“幻想のポートレイト”という副題が示唆するように、史実に忠実な作品ではない。シャインバーグは、独自の観点からダイアン・アーバスの内面に分け入り、写真家に目覚めていく彼女の変化を描き出している。

 その内面世界への入口になるのは、ダイアン・アーバスの愛読書だった『不思議の国のアリス』だ。映画のもとになったパトリシア・ボズワースの伝記『炎のごとく』には、こんな記述がある。「成長することをテーマとするこのお気に入りの本を、彼女は大人になっても何度も読みかえし、謎々を暗記し、無限につづく異常なものたちの王国をそらんじていた」。「アリスのように、ダイアンはいつも疑問を抱いていた。何が正常なのか? 何が異常なのか? 何が動物的で何が人間的なのか? 何が本当で、何が見せかけなのか? ダイアンにはまったく確信が持てなかった

 “アリス”をモチーフにした映画といえば、まず少女の冒険や成長が思い浮かぶ。ルイ・マル監督の『ブラック・ムーン』では、終末的な世界を彷徨う少女が、一角獣に導かれてある屋敷にたどり着き、奇妙な住人たちに翻弄されながらも次第にそこに秩序を見出していく。テリー・ギリアム監督の『ローズ・イン・タイドランド』では、荒野で孤児になる危機に直面した少女が、幻想世界を生み出すことによって過酷な現実を乗り越えていく。

 だが、『毛皮のエロス』のヒロインはもちろん少女ではない。裕福な家庭に育ったダイアンは、1958年のニューヨークで、ファッションカメラマンの夫の助手を努め、娘たちを育てながら、満たされない思いを抱えている。そんな彼女は、アパートの上階に越してきたマスクの男に惹きつけられていく。彼女が勇気を奮い起こして男の部屋の扉を開けると、そこには全身毛むくじゃらの男が治める王国がある。彼女は、その多毛症の男ライオネルと向き合うことで、本来の自分に目覚めていく。


◆スタッフ◆
 
監督   スティーヴン・シャインバーグ
Steven Shainberg
原作 パトリシア・ボズワース
Patricia Bosworth
脚本 エリン・クレシダ・ウィルソン
Erin Cressida Wilson
撮影 ビル・ポープ
Bill Pope
編集 クリスティーナ・ボーデン、出口景子
Kristina Boden, Keiko Deguchi
音楽 カーター・バーウェル
Cater Burwell
 
◆キャスト◆
 
ダイアン・アーバス   ニコール・キッドマン
Nicole Kidman
ライオネル ロバート・ダウニーJr.
Robert Downey Jr.
アラン・アーバス タイ・バーレル
Ty Burrell
-
(配給:ギャガ・コミュニケーションズ )
 

レスリー・フィードラーの『フリークス』の第5章「美女と野獣――醜さのエロス」は、こんな文章で始まる。「あらゆるフリークは、程度の差こそあれ、いずれもエロティックなものとして受け止められている。実際、異常性は一部の「ノーマルな」人間のうちに、この究極の他者をただ眺めるだけではなく全的な肉体感覚において「知りたい」という誘惑を引き起こすのである

 この映画にもそんな要素が見られるが、シャインバーグの関心は、別のところにある。ダイアンとライオネルの関係は、彼の前作『セクレタリー』の秘書リーと弁護士グレイのそれに通じるものがある。彼らはそれぞれに著しい抑圧を抱え、リーは自傷行為で、グレイはサディスティックな行動で、心の均衡を保っている。そんな彼らを最初に結びつけるのは、自傷行為とサディスティックな行動の相性に過ぎないが、やがて支配と服従の関係が彼らの内面を変えていくことになる。

 ダイアンとライオネルを最初に結びつけるのも、表面的な違いに過ぎないが、次第に関係が変化していく。ライオネルは、多毛症ゆえに身体と内面が引き裂かれるような辛い体験をしている。ダイアンは、ファッション写真の表層的な美意識や50年代の保守的な価値観に抑圧されている。そんな彼らの内面は変化し、過去や抑圧から解放されていく。

 アリスをモチーフにした映画では、個人だけではなく、世界も大きく変化する。その極端な例は『マトリックス』だろう。白ウサギのタトゥーに導かれたネオが覚醒するとき、1999年の現実は人間を管理する仮想現実に変わる。『毛皮のエロス』では、写真家として歩みだしたダイアンが訪ねるヌーディストのコミュニティが、彼女の世界の変化を象徴している。それは、50年代という大量消費時代が生み出した人工的で表層的な世界の対極にあるからだ。

《参照/引用文献》
『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』パトリシア・ボズワース●
名谷一郎訳(文芸春秋、1990年)
『フリークス 秘められた自己の神話とイメージ』レスリー・フィードラー●
伊藤俊治・旦敬介・大場正明訳(青土社、1990年)

(upload:2009/06/23)
 
 
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