シンチョンはターフーに、買い物のときの金の払い方やバスの乗り方などを教えこんでいく。ひとりで生きていくための土台を築くということは、健常者の世界に順応させていくことを意味する。しかし、一方的に順応させるだけでは、自閉症者という他者の生の可能性を限定することになるだろう。
この映画では、そんな他者の世界が海という空間で表現される。ターフーは水族館の水槽のなかを自由に泳ぐ。水槽のガラスを隔ててそんな息子の姿を見るシンチョンは、「魚に生まれていればよかったのに」とつぶやく。
シンチョンが息子を健常者の世界に順応させるためには、彼もまた他者の世界を受け入れ、踏み出さなければならない。そのことが、このドラマに深みとダイナミズムを生み出していく。
シンチョンにとって海に順応することは、精神的にも身体的にも容易なことではない。実はこの映画は、海に浮かぶボートから、足に重石をつけたシンチョンとターフーが飛び込むところから始まる。将来を悲観したシンチョンは、息子と心中しようとする。ところが、ターフーにとって海は自分の世界であり、死ぬはずもない。この冒頭から、海は父と子にとって対照的なものとして存在している。
シンチョンにとって海は死の象徴だ。ドラマの途中では、泳ぎが得意だった彼の妻が海で亡くなったことが明らかにされ、死との結びつきがさらに強調される。
シンチョンは残された力を振り絞って、自ら海亀になろうとする。それは、海を生の空間に変え、ターフーと対等になることを意味している。 |