『がんばれ、リアム』の脚本を手がけているジミー・マクガヴァンは、様々な相克のなかで人間を掘り下げる独自の視点が際立ち、イギリス映画界のなかで異彩を放つ脚本家だ。
彼はアントニア・バードが監督した『司祭』で大きな注目を集めた。この映画には、カトリックの聖職者が、自分がゲイであるという秘密を抱え、苦悩する姿が描かれていた。カトリックでは、生殖以外の目的で行う性行為と同じように同性愛が罪とみなされていたため、全米のカトリック教会がボイコット運動を繰り広げたり、ローマ法王が抗議声明を発表するなど、この映画は物議をかもした。
『司祭』には確かにカトリックの教義と同性愛者の相克があるが、マクガヴァンはあくまで人間を掘り下げていく。ゲイ・カルチャーを扱った欧米の著作では、ゲイの性的な関係が同時に精神的な体験となり、それがカトリックの信仰とも結びつくという記述をよく目にするが、この映画にもそれに通じる視点がある。つまり、主人公の聖職者はたまたまゲイだったのではなく、ゲイであるがゆえにいっそう信仰へと駆り立てられる。肉体と精神の深い結びつきにこだわる彼の視点が、この映画を単に社会的な題材を扱った作品とは一線を画すものにしているのだ。
同じことは、心臓の臓器移植という現代的な題材を扱ったチャールズ・マクドガル監督の『HEART』にもいえる。この映画で、移植される心臓はただの臓器ではなく、双方の家族に精神的な影響を及ぼしていく。そして、ひとつの心臓をめぐって、双方の家族の異なる価値観が激しくせめぎあい、彼らの精神と肉体のバランスが崩れるとき、嫉妬は殺意に、信仰は狂信へと変貌する。
マクガヴァンのこだわりは、マイケル・ウィンターボトム監督の『GO NOW』にもよく表れている。この映画では、不治の病に侵された若者ニックとその恋人カレンの愛と試練が描かれる。恋人同士に難病とくれば、どうしても涙を誘うメロドラマになりがちなものだが、映画の作り手はドラマを演出するのではなく、そこにある彼らの肉体と心の変化をしっかりと見つめている。それゆえ男女の姿に清々しさすら感じてしまうのだ。
『がんばれ、リアム』は、1930年代という時代背景や子供を主人公にしている点など、これまでのマクガヴァンの作品とは異質な要素も目立つが、人間を見つめる彼の視点に変わりはない。リアムの一家は、不況のために貧困にあえぐ生活を送っている。彼らはカトリックの信者だが、教会はただ寄付を募りにくるばかりで、彼らに何の救いももたらすことはない。それでも母親は、無理をしてリアムの聖体拝領の準備を整える。しかしそんな生活は次第に一家の心と身体を蝕み、父親や母親は排他的な感情に支配され、取り返しのつかない悲劇を招き寄せてしまう。 |