ディアーヌ・キュリス監督の『彼女たちの関係』は、姉妹の激しい愛憎関係を描いた作品だが、筆者には、ひとりの芸術家の愛と創造、葛藤、成長などをユニークな視点で浮き彫りにする作品に見える。
この映画の冒頭には、ヒロインである芸術家の微妙な心の揺れが暗示されている。マリアは、パリにアトリエを構え、オリジナルな作品が認められつつある新進の芸術家だ。彼女のマネージャーは、彼女にニューヨークのアート・シーンに乗りだすことを勧めるが、彼女はそこまで踏み切る気持ちにはなれない。
一方、彼女の私生活はといえば、
プロボクサーを目指す恋人のフランクが、彼女のアパルトマンに半ば強引に転がり込んでくる。彼女はそんな事態に対して一瞬、明らかに躊躇するが、結局は彼を受け入れ、この恋人の存在を精神的、肉体的な心の支えにしていこうとする。
つまりマリアは、心のどこかに迷いを抱え込みながらも、ニューヨークのアート・シーンからしり込みし、住み慣れたパリに自分が安らぐことができる居場所と絆を作り上げていこうとするわけだ。ところが、彼女がまさにそんな選択をしたときに、目の前に現れるのが、姉のエルザなのである。
そして、アリスとエルザのやりとりから、実は、アリスの表現スタイルがもともとはエルザのアイデアであったことが明らかになってくる。アリスは、才能に恵まれた姉のアイデアを模倣しながらスタイルを作り上げてきたのだ。映画の冒頭に暗示されたアリスの心の迷いは、そうしたコンプレックスに起因していると見ることができる。
エルザは、アリスの生活に強引に踏み込み、それを徹底的に破壊しようとし、アリスは、そんな姉の暴挙をできる限り耐え忍び、ぎりぎりのところまで追い詰められていく。このふたりの関係は一体何を意味しているのだろうか。そこには、単に姉妹の嫉妬やコンプレックス、愛憎とは言いがたいものがある。
筆者は、彼女たちの関係は、創造をめぐる複雑な葛藤を表現していると思う。たとえばここで、アリスの恋人であるフランクに注目してみるとなかなか興味深いコントラストが見えてくる。
フランクは、プロボクサーを目指している。スポーツとアートという違いはあるが、彼はアリスと似たような立場にある。つまり、自分の目標に到達するためには、周囲の何かに依存することなく確実に自分を孤独な状況に追い込み、自分の感性や肉体の奥深くに秘められた力を引きだしていかなければならないからだ。ところが彼は、次第にトレーニングが散漫になり、あっさりと挫折してしまう。
彼には自分を追い詰めるものがなく、アリスとの関係に安住してしまうからだ。
それではアリスはといえば、彼女はオリジナルな創造を志しながらも、秘められたコンプレックスゆえにフランクに支えを求めようとする。しかしながら彼女には、彼女のことを徹底的に追い詰めるエルザが存在している。エルザは、アリスのアトリエを散々にぶち壊し、その魅力的な肉体でフランクを誘惑し、すべてを奪い取ろうとする。
しかしアリスは、そんなふうにエルザに孤独な場所に追い詰められることによって、無意識のうちに何にも依存しない純粋な自己に目覚め、模倣ではないオリジナルな芸術家へと脱皮していくのだ。そういう意味では、この六日間の物語は、未成熟な芸術家が厳しい葛藤の末に成長をとげ、ニューヨークに巣立つまでを描いているともいえる。
この映画は、そんな創造をめぐる微妙な心理を描いているだけに、ふたりのヒロインのキャスティングを誤れば陳腐なドラマにもなりかねないが、監督のディアーヌ・キュリスは、ベアトリス・ダルとアンヌ・パリローという個性的な女優を起用し、彼女たちの魅力を存分に引きだしている。 |