「主人公のサムは自分の背中を「アート作品」として売ることで、思いもよらない形で現代美術の世界へ足を踏み入れます。ファウストが悪魔と契約したように、恵まれた人と呪われた人とが契約を交わしたのです。現代美術と難民は全く異なる世界ではありますが、この2つの世界が映画の中で対比することで“自由”について考えさせられるものとなっています」(プレスより)
本作は、このアイディアをどうとらえるかによって、その評価が変わるはずだ。シリアの悲劇や難民で思い出されるのは、マシュー・ハイネマンの『ラッカは静かに虐殺されている』やワアド・アルカティーブの『娘は戦場で生まれた』などだが、このアイディアをシリアスにとらえ、本作に描かれるシリアや主人公サムをそうした作品で浮き彫りにされる現実と単純に結びつけてしまうと、予想を裏切るような展開に肩透かしを食らわされる。実際、筆者がざっとチェックしてみた海外評には、その展開が説得力に欠けるとか、風刺や批評として機能していないといった意見も見られた。
だが本作は、このアイディアだけに頼っているわけではない。印象に残るのは、ハニア監督がリアリズムにまったくこだわっていないことだ。演出でいえば、本作のドラマにはほとんどタメがない。テンポよく局面が変わり、人物の内面を想像するような余地はない。それはすべて意識的なものだろう。
そして、随所に遊びや皮肉なユーモアをちりばめている。本作の導入部には、留置場から逃亡したサムが、身を隠して移動する場面がふたつあるが、そのどちらにも監督のセンスが表れている。
ひとつは、サムが知人か友人のトラックの荷台に隠れて、アビールが住む立派な屋敷の前までやって来る場面。そのトラックが運んでいる荷物がちょっと変わっている。中身は不明だが、どれもチェック柄の布に包まれている。その荷物のひとつが動き出し、チェック柄のシャツを着たサムであることがわかる。これは明らかに遊んでいる。
もうひとつは、サムが姉の運転する車に隠れて国境の検問所を通り抜け、レバノンに脱出する場面。無事に検問所を抜けてから、サムが助手席のなかに隠れていて、窒息しそうになっていたことがわかる。滑稽なのは、検問所を通るとき、そのシートのうえに猫が座っていることだ。その猫とアリの対比がなんとも滑稽なのだ。
しかも、これらのエピソードは、ジェフリーと出会ったサムの決断と無関係ではない。サムは、逃亡し、国境を越えるために、トラックの荷物や車の座席にならなければならなかった。そんな彼が、アビールに会うために今度はアート作品になる。ただし、もう身を隠す必要はない。大手を振ってヨーロッパに行ける。
だが、実際に自分が作品になってみてはじめて、それがいかに窮屈なものであるのかを思い知る。有名カメラマンは、サムの背中のタトゥーだけを撮影し、人としてのサムは存在しないに等しい。美術館の観覧者もアリの背中だけを鑑賞し、その他の部分は額縁のようなものに過ぎない。そんな美術館で、先生に引率された学童のひとりが、遠い国からやって来る人がみなタトゥーを入れるのか、素朴な疑問を抱き、それを耳にしたサムが敏感に反応し、彼を人として見ているその学童に好感を抱き、作品という立場を無視して学童に向かってしゃべりだす展開も面白い。
こうしたエピソードを踏まえれば、アリを単純に『ラッカは静かに虐殺されている』や『娘は戦場で生まれた』などが浮き彫りにする現実と結びつけても意味がないことがわかる。
さらに、鏡の効果も見逃せない。本作では、方向感覚を失うような冒頭の鏡のトリックが入口となり、ドラマのなかでも鏡が多用され、現実とは一線を画す批評性と遊び心に満ちた世界が切り拓かれ、エンタメにまとめあげられている。タメのないドラマや鏡、スカイプやテレビから浮かび上がるのは、終盤に盛り込まれるイスラム国(IS)のイメージも含めある意味でみな薄っぺらな記号であり、そんな記号で遊んでしまうところが挑発的で面白い。 |