式典を終えたペーターの一家が車で自宅に戻る場面では、同乗するエリックとその妻ベアーテとの関係はまだ明確ではない。実はもう何週間も北風を待ち続けていたペーターは、移動中も天気予報を聞き逃さないようにニュース番組を流している。ところが、今夜の予報の直前に、エリックが音楽番組に変えてしまう。しかもそんなタイミングで、「いつ逃げる?」と問いかけられるのだから、肝をつぶしたはずである。
もし予報を確認していれば、帰宅するまでに心の準備ができ、風船を目にしてあたふたすることも、エリックにその場しのぎの嘘をつくこともなかった。エリックがもっと用心深い男だったとしたら、すぐに嘘が露見し、監視の対象となっていただろう。
ヘルビヒ監督は、前後の繋がりなどから主人公たちの心理や感情を想像させるような演出を心がけている。そうした表現が積み重ねられていくことで、家族が逃亡に踏み切る事情も見えてくる。実は、導入部の緻密な構成に関する説明はまだ終わりではない。むしろここからが重要だといえる。
ペーターの一家が気球の離陸地点へと急いでいる頃、ギュンターは、母親や継父と過ごしている。その継父は、ギュンターとふたりだけになったときに、「息子の幸せが一番の喜び」と断ったうえで、「お前は甘んじるな、未来のある身だ」と胸に秘めた思いを吐露する。逃亡を断念したばかりのギュンターが、それを聞いて何を思ったかは想像に委ねられているが、後から振り返れば、この瞬間こそが大きな分岐点になっていたことがわかる。
一方、最初の飛行に失敗したペーターとドリスの間でも、こんなやりとりがある。「あんなことして、親失格だわ。無責任だったのよ」と悔やむドリスに対して、ペーターは「この国で子育てするほうが無責任だ」と語る。要するに、彼らにとっても息子たちの幸せが一番であり、それゆえに葛藤を強いられている。
さらに、もうひとつ見逃せないのが、ギュンターの息子ペーターが通う幼稚園の先生の存在だ。彼女がザイデル中佐に聴取される場面には、ヘルビヒ監督の関心が反映されている。そのとき彼女が何を考えているのかは定かではないが、中佐と、たまたま転がったボールを拾いにきたペーターの双方と向き合ってから、質問に答える演出は暗示的である。
成年式の場面から始まるこの物語では、子供への眼差しが鍵を握っている。もしそれ以前に北風が吹き、飛行に成功していれば参列することもなかった成年式で、ペーターとドリスは、息子が社会や組織に組み込まれていく姿を目にする。東ドイツの指導者ホーネッカーは、89年1月の時点ですら、100年後も壁は存在すると語っていた。両親は、自分たちだけならまだしも、子供たちの未来まで奪われることに耐えられなかったのだろう。
ペーターと長男のフランクは、チェコスロバキアかハンガリーを経由する逃亡も検討するが、車のトランクに4人が隠れるのは現実的ではない。気球は家族が逃亡するのに相応しい手段だったといえるが、本作に描き出される気球からは別な想像も広がる。当時、多くの人々が主人公たちと同じような葛藤を抱えていた。東ドイツの各地から少しずつ集めた生地を縫い合わせてできた色鮮やかな気球は、そんな人々の夢を象徴しているように思えてくるのだ。 |