バルーン 奇蹟の脱出飛行
Balloon


2018年/ドイツ/ドイツ語/カラー/125分/シネマスコープ
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(初出:『バルーン 奇蹟の脱出飛行』劇場用パンフレット)

 

 

驚きに満ちた実話の映画化
物語の鍵は、親から子への眼差し

 

[Story] 1979年、東ドイツ・テューリンゲン州。電気技師ペーターとその家族は、手作りの熱気球で西ドイツをめざすが、国境までわずか数百メートルの地点に不時着してしまう。東ドイツでの抑圧された日常を逃れ、自由な未来を夢見ていたペーターは、準備に2年を費やした計画の失敗に落胆の色を隠せない。しかし妻とふたりの息子に背中を押されたペーターは、親友ギュンターの家族も巻き込み、新たな気球による脱出作戦への挑戦を決意する。ギュンターが兵役を控えているため、作戦のリミットはわずか6週間。ふたつの家族は一丸となって不眠不休の気球作りに没頭するが、国家の威信を懸けて捜査する秘密警察の包囲網が間近に迫っていた――。

[以下、本作のレビューになります]

 旧東ドイツの秘密警察シュタージを題材にした歴史書『The Firm: The Inside Story of the Stasi』を読んでいて、ひとつ印象に残ったのは、西への逃亡を企てる人々が、一般的に危険を厭わない若者ではなく、しばしば平凡で、思慮深い家族持ちだったということだ。彼らはなぜ、子供も危険にさらされることを承知で逃亡を企てたのか。

 本書によれば、東ドイツにおける広範囲にわたる監視体制は、当時の東欧諸国のなかでさえも並外れていたという。総人口に占める秘密警察職員の比率は、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドでは、それぞれ595人、867人、1574人に1人だったのに対して、東ドイツでは180人に1人だった。その数字は、いかに息苦しい社会であったかを物語るが、それだけでは家族が逃亡する理由の十分な説明にはならない。

 ミヒャエル・ブリー・ヘルビヒが監督した本作の見所は、気球による逃亡やシュタージの包囲網をめぐるアクションやサスペンスだけではない。ヘルビヒ監督は、省略を生かした無駄のない話術で主人公たちの複雑な心の動きに迫っている。特に、導入部の緻密な構成と演出は見逃せない。

 主人公たちの最初の飛行計画は、成年式の式典から帰宅したペーターの一家が、北風に乗って西側に飛んでいく風船を見かけたことをきっかけに実行に移される。しかし、その後のペーターとギュンターのやりとりを踏まえて振り返ってみると、風船を見かける以前から伏線がちりばめられていたことがわかる。


◆スタッフ◆
 
監督/共同脚本   ミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ
Michael Bully Herbig
撮影 トレステン・ブロイアー
Torsten Breuer
編集 アレクサンダー・ディットナー
Alexander Dittner
音楽 ラルフ・ヴェンゲンマイアー
Ralf Wengenmayr
 
◆キャスト◆
 
ペーター・シュトレルツィク   フリードリヒ・ミュッケ
Friedrich Mucke
リス・シュトレルツィク カロリーヌ・シュッヘ
Karoline Schuch
ギュンター・ヴェッツェル デヴィッド・クロス
David Kross
ペトラ・ヴェッツェル アリシア・フォン・リットベルク
Alicia von Rittberg
ザイデル中佐 トーマス・クレッチマン
Thomas Kretschmann
-
(配給:キノフィルムズ/木下グループ)
 

 式典を終えたペーターの一家が車で自宅に戻る場面では、同乗するエリックとその妻ベアーテとの関係はまだ明確ではない。実はもう何週間も北風を待ち続けていたペーターは、移動中も天気予報を聞き逃さないようにニュース番組を流している。ところが、今夜の予報の直前に、エリックが音楽番組に変えてしまう。しかもそんなタイミングで、「いつ逃げる?」と問いかけられるのだから、肝をつぶしたはずである。

 もし予報を確認していれば、帰宅するまでに心の準備ができ、風船を目にしてあたふたすることも、エリックにその場しのぎの嘘をつくこともなかった。エリックがもっと用心深い男だったとしたら、すぐに嘘が露見し、監視の対象となっていただろう。

 ヘルビヒ監督は、前後の繋がりなどから主人公たちの心理や感情を想像させるような演出を心がけている。そうした表現が積み重ねられていくことで、家族が逃亡に踏み切る事情も見えてくる。実は、導入部の緻密な構成に関する説明はまだ終わりではない。むしろここからが重要だといえる。

 ペーターの一家が気球の離陸地点へと急いでいる頃、ギュンターは、母親や継父と過ごしている。その継父は、ギュンターとふたりだけになったときに、「息子の幸せが一番の喜び」と断ったうえで、「お前は甘んじるな、未来のある身だ」と胸に秘めた思いを吐露する。逃亡を断念したばかりのギュンターが、それを聞いて何を思ったかは想像に委ねられているが、後から振り返れば、この瞬間こそが大きな分岐点になっていたことがわかる。

 一方、最初の飛行に失敗したペーターとドリスの間でも、こんなやりとりがある。「あんなことして、親失格だわ。無責任だったのよ」と悔やむドリスに対して、ペーターは「この国で子育てするほうが無責任だ」と語る。要するに、彼らにとっても息子たちの幸せが一番であり、それゆえに葛藤を強いられている。

 さらに、もうひとつ見逃せないのが、ギュンターの息子ペーターが通う幼稚園の先生の存在だ。彼女がザイデル中佐に聴取される場面には、ヘルビヒ監督の関心が反映されている。そのとき彼女が何を考えているのかは定かではないが、中佐と、たまたま転がったボールを拾いにきたペーターの双方と向き合ってから、質問に答える演出は暗示的である。

 成年式の場面から始まるこの物語では、子供への眼差しが鍵を握っている。もしそれ以前に北風が吹き、飛行に成功していれば参列することもなかった成年式で、ペーターとドリスは、息子が社会や組織に組み込まれていく姿を目にする。東ドイツの指導者ホーネッカーは、89年1月の時点ですら、100年後も壁は存在すると語っていた。両親は、自分たちだけならまだしも、子供たちの未来まで奪われることに耐えられなかったのだろう。

 ペーターと長男のフランクは、チェコスロバキアかハンガリーを経由する逃亡も検討するが、車のトランクに4人が隠れるのは現実的ではない。気球は家族が逃亡するのに相応しい手段だったといえるが、本作に描き出される気球からは別な想像も広がる。当時、多くの人々が主人公たちと同じような葛藤を抱えていた。東ドイツの各地から少しずつ集めた生地を縫い合わせてできた色鮮やかな気球は、そんな人々の夢を象徴しているように思えてくるのだ。

《参照/引用文献》
”The Firm: The Inside Story of the Stasi” by Gary Bruce●
(Oxford University Press. 2010)
”The Wall: 25 Years since Mauerfall” by Nick Allen●
(Russian Life, November-December 2014)

(upload:2021/09/24)
 
 
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