マット・ロス監督の『はじまりへの旅』では、山奥の森で社会から隔絶した生活を送る一家が、亡き母の最期の願いを叶えるために旅に出る。彼らはその旅のなかで壁にぶつかり、対立も表面化する。
この映画を観ながら、ピーター・ウィアー監督の『モスキート・コースト』(86)のことを思い出す人は少なくないだろう。『モスキート・コースト』では、消費社会に批判的な発明家アリーが、アメリカの文明を捨て、家族を連れてホンジュラスのモスキート・コーストに移住し、そこに理想郷を築こうとする。だが、やがて歯車が狂いだし、アリーは独善に陥り、家族が翻弄されていく。
2本の映画の共通点は、主人公一家が文明と自然の狭間で苦闘を余儀なくされることだけではない。より重要なのは、どちらの物語にも神話的な要素が盛り込まれ、イニシエーション(通過儀礼)が鮮やかに描き出されることだ。息子にとって母親は最初の愛情の対象となるため、彼は父親に反発し、排除しようとする。フロイトはそんな関係を、ギリシア悲劇「オイディプス王」(オイディプスが父ライオスを殺し、母イオカステと結婚する)になぞらえ、エディプス・コンプレックスと名づけた。2本の映画には、この“父殺し”というテーマが埋め込まれている。
『モスキート・コースト』では、独善に陥ったアリーに、長男のチャーリーが反発する。彼は母親を説得し、父親を置いてアメリカに戻ろうとする。結局、アリーは自ら招いたトラブルで重傷を負い、息子に見放される。そしてチャーリーは最後にこのように語る。「父を信じていた頃、世界は小さく、年老いていた。父が死んだ今、世界は限りなく広い」。彼の言葉は、父殺しがイニシエーションになっていることを物語る。
この『モスキート・コースト』と比較してみると、『はじまりへの旅』では、共通するテーマが独自の表現でさらに深く掘り下げられていることがわかる。
その冒頭では、ボウドヴァンが鹿を仕留める姿が描かれる。父親のベンはそんな長男に対して、「今日、少年は死んだ。これでお前は男だ」と告げる。この映画はまさしくイニシエーションから始まる。だが、物語が進むにつれて、この儀式が機能しているとは思えなくなる。ボウドヴァンは明らかに女の子に関心を持っているが、自分から話しかけることもできない。そんな彼に自分の成長を実感させるのは、旅の途上で出会ったクレアと過ごす短い時間なのだ。これらのエピソードは、ベンが授けるイニシエーションが現実とずれていること、ボウドヴァンが父親を信じている時期から抜け出していないことを物語る。 |