この3部作の構成については、ザイドルの前作『インポート・エクスポート』(07)を思い出しておいても無駄ではないだろう。この映画では、無関係な二人の人物の物語が並行して描かれる。ウクライナで看護師として働くオルガは、給料が減額されて生活が苦しくなり、子供を自分の母親に委ね、オーストリアに出稼ぎに行く。一方、オーストリアで警備員として働くポールは、失業した上に金銭トラブルも抱えていたため、義父の仕事を手伝って旧式のゲーム機をウクライナに運搬する。ザイドルは、グローバリゼーションの時代を意識したそんな構成によって、他者の視点を通して双方の社会の周縁部分を抉り出している。
ザイドルが新作を一本の映画として撮影を進めていた段階では、前作と同じように三人の物語を並行して描けると考えていたに違いない。ではなぜそれを3部作に変更したのか。もちろん、一本の映画では構成がより複雑になり、コントラストなどの効果が弱くなる可能性は高い。しかし、おそらく理由はそれだけではないだろう。
ザイドルのドキュメンタリーとこれまでの劇映画には、興味深い逆転現象が見られる。ドキュメンタリーでは主に、現実の世界では満たされない人間の欲望が、どこに向かい、どのように表れるのかが掘り下げられていた。『Animal Love』(95)では、社会から孤立し、動物を人間のパートナーのように扱う人々の姿が次々に映し出される。TV映画の『Fun Without Limits』(98)では、案内役を務める女性にとってテーマパークこそが現実の世界になっている。つまり、現実に根ざしているにもかかわらず、幻想性が際立っている。これに対して、ウィーンのサバービアを舞台にした『ドッグ・デイズ』(01)や『インポート・エクスポート』といった劇映画では、架空の人物たちの物語でありながら、幻想性よりも生々しい生活感や暴力性の方が際立っている。
ではこの新作の場合はどうか。明らかにこれまでの劇映画とは違う。3部作に共通する「パラダイス」というタイトルは、現実の世界では得られないものが得られる場所を意味している。しかしそれは現実ではない。『インポート・エクスポート』のように、主人公が周縁の現実を目撃する他者であれば、二人の軌跡を対置することで強烈なコントラストが生まれる。だが、三者三様の幻想を一本の映画に盛り込んでも、幻想のインパクトが三倍になるわけではない。だから3部作という構成になっているのだ。
この3部作は「愛」「神」「希望」という異なるテーマを扱っているように見えるが、本質的にはいずれも現実の世界で得られない愛をパラダイスに求める物語になっている。ザイドルはそんなパラダイスにおける幻想と現実のせめぎ合いを、ヒロインそれぞれの精神と肉体の距離の変化を通してダイナミックに描き出していく。
『パラダイス:愛』のテレサは、アフリカ人の若者とのセックスを金で買うことには抵抗がある。なぜなら彼女が求めているのは愛だからだ。そんな彼女はある若者に愛されているという幻想にのめり込み、金を吸い取られていく。騙されていることを知った彼女は、自分を見失い、従順なバーテンダーにセックスを強要し、気づいてみれば金でセックスを買う女たちより醜い存在になっている。
『パラダイス:神』のアンナ・マリアの禁欲生活は、車椅子に乗ったエジプト人のイスラム教徒である夫が二年ぶりに家に戻ったことでかき乱される。夫婦の間に巻き起こる宗教戦争のなかで、彼女の幻想は破綻していく。自分を罰することで肉欲を退け、イエスに近づけると信じていた彼女は、鞭を振るうほどに肉体に目覚めていく。
『パラダイス:希望』のメラニーが医師に恋するのは、表面的な美の基準を徹底的に叩き込もうとするファシズム的な合宿のなかで、彼の思わせぶりな態度が肉体を忘れさせてくれるからだ。だから彼女はもっと深い関係になろうと迫るが、戸惑った男は彼女を遠ざけるためにファシストの一員になる。
つまり彼女たちは、肉体から解放されるような愛を求めて幻想にのめり込み、いつしか肉体に深く囚われ、孤独のなかでそこから逃れられないことを思い知ることになる。そんな3部作では、ザイドルのドキュメンタリーの幻想性と劇映画の生々しい生活感や暴力性が見事に融合している。 |