ジョニー・トー監督の『エレクション』に描き出されるのは、香港黒社会の頂点の座をめぐって繰り広げられる血みどろの権力闘争だ。香港最大の組織「和連勝会」で二年に一度行われる会長選挙に名乗りを上げた二人の男たち。年長者を敬い、組織に忠実なロクと直情的で、強引に事を進めるディーは、頂点に立つために激しく火花を散らしていく。
この権力闘争には、ふたつの重要な背景がある。ひとつは伝統であり、ドラマのなかで徐々に開示されていく。まず、買収工作を知った長老格のタンが、これまで選挙を支えてきた信頼について語る。次に、形あるものとして、会長だけが手にすることができる<竜頭棍>の存在が浮かび上がる。これは、組織にとって聖杯のようなものだといえる。そして最後に、黒社会の起源を明らかにする神話的な物語が掘り起こされる。その起源は、17世紀に清朝の打倒と明朝の復興を目指して兄弟の契りを交わした漢民族の秘密結社にまで遡る。
ジョニー・トーは、権力闘争を通して、そんな伝統と現実との乖離を浮き彫りにしていく。選挙を支えてきた信頼は、選挙に破れたディーが、賄賂を拒んだり、使い込んだ幹部に報復することで失われていく。それに続く<竜頭棍>の争奪戦も実に象徴的である。<竜頭棍>は、丸太で何度殴打されてもそれを手放さないダイタウ、追っ手から逃れるために警官まで轢いてしまうトンクン、斬り合いで深手を負っても抵抗し続けるフェイなど、揺るぎない忠誠心を持つ男たちに引き継がれていく。
だが最後に、単独行動をとるジミーに横取りされる。そのジミーは、密約と引き換えにそれをロクに渡す。つまり、聖杯は駆け引きの道具と化す。そして最後に、かつての秘密結社と現在の組織における兄弟の契りの儀式が対置され、神話と彼らを隔てる距離が明確にされていく。
これに対して、もうひとつの重要な背景は、この乖離を加速させるものだといえる。田雁の『ブラック・チャイナ』には、97年の返還以後の香港について以下のような記述がある。「1997年の香港返還は、黒社会の動向にも大きな影響を与えた。大陸の公安・司法当局に対する強い警戒感は、香港黒社会を企業化の方向に向かわせており、犯罪活動から合法的な商業活動に主軸を移している組織も増えている」
この映画では、そうした状況の変化が意識されている。たとえば、単独行動で抜きん出るジミーが、経済学の講義に出席しているのも、そのひとつの表れだ。しかし、それ以上に際立っているのが香港警察の対応だ。映画の冒頭で組織の幹部たちの前に現れた警視は、彼らの顔や名前をすべて把握している。警察は、彼らを常に監視しているが、組織そのものを潰そうとはしない。
彼らを逮捕するのは、まず何よりも組織の内紛の火種を消し去り、均衡を保つように圧力をかけるためだ。警視は、留置場のなかで、組織の幹部たちに、対立するロクとディーを説得する機会さえ与える。また、この警視が、逮捕した彼らを連行するときに、野次馬やマスコミの前で晒し者にする場面も印象に残ることだろう。
かつて強固な民族意識を共有し、大衆とも深い繋がりを持っていた秘密結社は、変化する時代のなかで、新たな目的を見出すことができず、犯罪組織となった。いまの彼らには、形骸化した伝統を除けば、共有できるアイデンティティは何もない。警察は、ある意味で彼らを黒社会に封じ込め、組織を管理させている。そこで、変革を迫られる彼らは、ビジネスに唯一の出口を見出していく。
そんなドラマは、『ザ・ミッション』や『PTU』とは見事に対照的な展開を見せる。そして、バイオレンスの意味も変化する。『ザ・ミッション』や『PTU』の主人公たちは、組織や警察の掟や規則と身内の絆の狭間で、重大な選択を迫られる。そんな彼らにとって、生死が交錯する緊迫した状況は、掟や規則を超える絆を確認する儀式となる。 |