この印象的なショットの踏み台になっているのは、おそらく『未知との遭遇』だろう。この映画の主人公のひとり、電気技師のロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)の一家が暮らしているのもまた郊外の町だが、やはり夜の闇と光を巧みに使って町をとらえるシーンがあった。それは、この一家が暮らす郊外住宅地が、UFOの出現が原因と思われる停電に見舞われるところだ。あの整然と区切られた光のブロックが、順番に闇に呑み込まれていく光景はとても印象に残る。
これまで郊外を舞台にした映画がなかったわけではないが、郊外の景観を、あらためてその世界を意識させるほど印象的にとらえたのは、スピルバーグが最初ではないかと思う。
とはいうものの、もちろん、単に印象的ということだけなら、話はセンスとテクニックで片づいてしまう。問題はそれからだ。憧れの郊外のマイホーム、そこには本来なら、いまサバービアのイメージとして取りあげたような、幸福な家族が暮らしているはずだが、スピルバーグが描く郊外のアメリカン・ファミリーは、とても幸福そうには見えない。
『E.T.』のエリオット少年の家は、立派な住宅で、ママに兄に妹もいるが、パパが欠けている。怪物がいるという話を家族が誰も信じようとしないとき、エリオットは、「パパなら信じる…」とつぶやく。そして、自分の言葉を信じてもらえないくやしさから、父親がサリーという女性とメキシコに行っているということを口にしてしまい、母親は子供たちの前で涙を浮かべ、家族は沈んでしまうことになる。
傍目には満ち足りた生活を送っているように見えるのに、なぜ父親は家を出てしまったのだろうか。この映画からその答を得ることはできないが、筆者はスピルバーグが、郊外をとらえる印象的なショットと、そこで暮らす家族のギャップに“含み”を持たせているように思う。
郊外という世界と結びついたスピルバーグの経歴と作品については、本書の第10章で詳しく触れることになるが、スピルバーグが育ったのは郊外の町である。彼は郊外の子供なのだ。スピルバーグの作品とその背景を探るトニー・クロウリーの評伝『The
Steven Spielberg Story』には、スピルバーグのこんなコメントがある。
『未知との遭遇』、『ポルターガイスト』、そして『E.T.』に描かれているのはぼくの家なんだ。『E.T.』の家は、ぼくが育った家そのものだ。あれはぼくの寝室だよ。それから、あのかわいらしい少女ガーティは、ぼくの3人の素晴らしい妹たちを融合させたものなんだ。
このコメントからは、スピルバーグが、子供の頃から培われた映画的なイマジネーションの背景として、郊外の世界を非常に意識しているのを察することができるだろう。それは、単に個人的な体験が投影されているというレベルの話とは違う。スピルバーグがコメントのなかにあげている3本の映画では、どれも郊外で暮らす家族が登場するとはいえ、その設定はずいぶん異なっている。その3本に描かれた家を、“ぼくの家だ”と言い切るところに、郊外の世界に対する彼のこだわりを垣間見ることができるのだ。
それでは、『未知との遭遇』の家族の場合には、郊外の印象的なショットとのあいだにどのようなギャップがあるのだろうか。こちらの家族もロイというパパはいるものの、いい雰囲気だとはいえない。UFOが出現する直前、家族は遊園地に行くの行かないのといった些細なやりとりが高じて、ピリピリとした雰囲気になっている。
『未知との遭遇』に関しては、スピルバーグ自身が小説も発表し、邦訳もされている。その小説『未知との遭遇』では、ロイと妻ロニーのピリピリとした雰囲気がもっとくっきりと描かれ、スピルバーグの問題意識が浮かびあがってくる。小説には、家族の行楽に関心を示さない夫に不満を持つロニーと夫のあいだで、こんな会話がつづいていく。
「きみはひどく不満そうだな」
「しようがないでしょ」
「いいかい。電力会社でぼくのやっている仕事が素晴らしい生活だとでも、きみが思っているのなら…」ロイの声がしだいに小さくなって途切れた。妻がどれくらい怒っているのか、考えてみたのだ。
ロニーは、ぼんやり彼を見た。「みんなが言ってるけど」
「何をだい?」
「生活様式よ。わたしたちも生活様式を変えなくてはいけないと思うの」
「そんなのは金持ちのやることさ。連中は、店へ電話して、最新のライフ・スタイルをそっくり注文するんだから」
「そんなのはライフ・スタイルとは言わないと思うわ。雑誌なんかで言っているのはもっと別のことよ…つまり生活の質ね」
生活様式とか生活の質といった言葉まで飛びだしてくる会話は、なかなか深刻である。この生活様式という言葉は、もちろんサバービアの生活様式を意味している。そして、UFOをめぐる騒ぎのなかで、父親ロイと家族が離れていくことになるのはご存知のとおりである。
この『未知との遭遇』の小説や映画に描かれる家族の場合も『E.T.』と同じように、こうした会話からさらに突っ込んで、家族の背景が語られることはない。それだけに『未知との遭遇』の場合も、スピルバーグが、印象的なショットと家族のギャップに含みを持たせているといえる。また、一見すると郊外と何の関係もないように見える『激突!』のような作品もまた、背景に郊外のライフ・スタイルがあることはスピルバーグ作品を取りあげる第10章で細かく触れる。
筆者がアメリカの郊外の世界について意識して考えてみるようになったのは、こうしたスピルバーグがあえて語ろうとはしない“含み”の部分に対する好奇心が出発点になっている。
この郊外に対する関心は、それから様々な方向へと広がっていった。たとえば、すでに文学史の本などで郊外の中流を描く作家として認められているジョン・チーヴァーやジョン・アップダイクの小説を読み直してみると、スピルバーグよりも上の世代とか、あるいは人生半ばにして郊外に転居した人間と、生まれながらに郊外で育った世代との違いが浮かびあがってくる。“バッド・テイスト”で有名になったジョン・ウォーターズ監督の映画は、スピルバーグの世界とはずいぶん隔たりがあるが、彼のユニークなセンスもまた郊外体験がルーツになっている。
また、ウェス・クレイヴンのホラーやデイヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』、ティム・バートンの『シザーハンズ』、マイケル・レーマンの『ヘザース』や『アップルゲイツ』、リンチの世界を小説に置き換えたようなA・M・ホームズの『The
Safety of Objects』といった作品に出会うと、郊外がますますありふれたものから遠ざかっていく。そうした映画や小説以外にも、アメリカの雑誌を読んでいて、郊外で起こった不気味な事件を取材した記事を目にしたり、郊外の体験を綴ったノンフィクションも出てきた。
そして、こんなふうに主題が広がってくるにしたがって、一方では、“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ”といわれるようなライフ・スタイル、あるいは、郊外のあの“アメリカン・ファミリー”のイメージがいつどんなふうにして出来上がり、定着していったのかということにも興味がわいてきた。
というようなわけで、本書は。第1章から第6章にかけて、郊外の世界の出発点や背景について様々な角度から触れ、第7章以降では、そうした現実を踏まえ、郊外を描いた作家や作品を取りあげ、ありふれた世界の向こう側を眺めていくという構成になっている。
それではまず、懐かしいホームドラマに描かれたような、幸福な郊外の世界へと入っていくことにしよう。 |