ディビザデロ通り / マイケル・オンダーチェ
Divisadero / Michael Ondaatje (2007)


2009年/松村潔訳/新潮社(新潮クレスト・ブックス)
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(初出:Into the Wild 1.0 | 大場正明ブログ 2009年3月6日更新)

個人を越えた時間と記憶と物語からなる
もうひとつの歴史の流れ

 マイケル・オンダーチェの『ディビザデロ通り』は、ユニークな構造を持った小説だ。カリフォルニアにある人里離れた農場に、父親と娘のアンナ、この父親に引き取られた血縁のない娘クレア、そして殺人事件で家族を殺されて孤児になった少年クープの4人が暮らしている。娘たちが16歳のときにある事件が起こり、家族はばらばらになる。

 クープはギャンブラーになり、クレアはサンフランシスコで弁護士事務所の調査員になり、アンナは文学研究者になってフランスに渡る。だが、どの物語も終わりまで語られることなく、彼らからも離れ、時間を遡る。そして、アンナが出会うジプシーのラファエルとその両親、アンナがその生涯を調べるリュシアン・セグーラという作家の物語になっていく。

 この物語には、小説の構造を暗示するような表現やイメージが盛り込まれている。

すべてはコラージュであり、遺伝でさえそうなのだ。わたしたちのなかには他人が隠れている。短期間しか知らなかった人でさえ隠れていて、わたしたちは死ぬまでそれを抱えつづける。国境を越えるたびに、それを自分のなかに封じ込める

何度も同じ方向に戻ってくるこの奇妙な鐘楼の形は、わたしには見馴れたものみたいに感じられた。なぜならわたしたちは、こども時代からすくい出された断片が融合し響きあうなかで、人生を生きていくのだから。万華鏡のなかの無数の断片が絶えず新しい形になって現れ、唄みたいに繰り返されたり韻を踏んだりしながら、ひとつのモノローグになっていくように

 タイトルの意味は、物語のなかで「スペイン語で「境界線」を意味するディビサデーロに由来するこの通りは(後略)」というように説明されている。登場人物たちが越える境界線は、国境だけではない。

 たとえば、個人という境界。クープと偶然の再会をするクレアは、記憶を失った彼にアンナとして受け入れられる。リュシアン・セグーラの物語のなかでも、人物の入れ替わりが起こる。それから、現実と虚構の境界。セグーラは、小説のなかに作り上げた人物を伴侶として生きていく道を選ぶ。


◆目次◆

01.   アンナ、クレア、そしてクープ
  孤児/赤と黒/マヌーシュ/過去から抜け出す/かつてはアンアとして知られていた人物/名前につまずく
02. 荷馬車の一家
  家/アストルフ/旅路/二枚の写真
03. デミュの家
  マルセイヤン/到着/広大な世界/犬/シャリヴァリと夜なべ/恋文/夜の仕事/親類/マゼールの森/畑/考え/戦争/休暇/帰還/さよならを言うがいい
   
  謝辞
  訳者あとがき

 
 

 断片化された物語は、時代も場所も異なるが、その背景にはさり気なく戦争が埋め込まれている。セグーラの物語には第二次大戦が、クレアが出会う州の弁護士アルド・ヴィーの物語にはヴェトナム戦争が、クープの物語には湾岸戦争やイラク戦争がある。そうした戦争は、ひとつの歴史の流れを示唆している。

 オンダーチェは、そんな流れに対してもうひとつの流れを構築しようとする。アンナにとって母親を知る手がかりは、カリフォルニアのスペイン系入植者の調査記録に残された彼女の言葉しかない。アンナはその小冊子にこんな印象を持つ。

この本に登場する人たちはみんな謙虚で、自分たちは歴史とともに生きているというより、歴史の周辺部で生きていると感じているようだった

 その印象はアンナの後の文学研究とも無縁ではない。彼女がセグーラという作家に関心を持った理由は、このように説明されている。

死んでから歳月が経つとともに、彼についての知識はこの地方の織り地と土地に沁みこんで、現地ではほとんど忘れられてしまっている。アンナはそういう歴史の枠からはみ出した人たちが好きだった。彼女にとって、そういう人間たちは地底の川みたいに重要な存在だった

 この小説からは、個人を越えた時間と記憶と物語からなるもうひとつの歴史の流れが浮かび上がってくる。


(upload:2011/12/26)
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