マイケル・オンダーチェの『ディビザデロ通り』は、ユニークな構造を持った小説だ。カリフォルニアにある人里離れた農場に、父親と娘のアンナ、この父親に引き取られた血縁のない娘クレア、そして殺人事件で家族を殺されて孤児になった少年クープの4人が暮らしている。娘たちが16歳のときにある事件が起こり、家族はばらばらになる。
クープはギャンブラーになり、クレアはサンフランシスコで弁護士事務所の調査員になり、アンナは文学研究者になってフランスに渡る。だが、どの物語も終わりまで語られることなく、彼らからも離れ、時間を遡る。そして、アンナが出会うジプシーのラファエルとその両親、アンナがその生涯を調べるリュシアン・セグーラという作家の物語になっていく。
この物語には、小説の構造を暗示するような表現やイメージが盛り込まれている。
「すべてはコラージュであり、遺伝でさえそうなのだ。わたしたちのなかには他人が隠れている。短期間しか知らなかった人でさえ隠れていて、わたしたちは死ぬまでそれを抱えつづける。国境を越えるたびに、それを自分のなかに封じ込める」
「何度も同じ方向に戻ってくるこの奇妙な鐘楼の形は、わたしには見馴れたものみたいに感じられた。なぜならわたしたちは、こども時代からすくい出された断片が融合し響きあうなかで、人生を生きていくのだから。万華鏡のなかの無数の断片が絶えず新しい形になって現れ、唄みたいに繰り返されたり韻を踏んだりしながら、ひとつのモノローグになっていくように」
タイトルの意味は、物語のなかで「スペイン語で「境界線」を意味するディビサデーロに由来するこの通りは(後略)」というように説明されている。登場人物たちが越える境界線は、国境だけではない。
たとえば、個人という境界。クープと偶然の再会をするクレアは、記憶を失った彼にアンナとして受け入れられる。リュシアン・セグーラの物語のなかでも、人物の入れ替わりが起こる。それから、現実と虚構の境界。セグーラは、小説のなかに作り上げた人物を伴侶として生きていく道を選ぶ。 |