エドワード・ノートン

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(初出:「English Journal」2004年1月号)

 エドワード・ノートンは、デビュー作『真実の行方』の新人離れした演技で映画人や観客を驚嘆させ、いきなりアカデミー助演男優賞にノミネートされるという快挙を成し遂げた。この映画で彼が演じたのは、大司教惨殺事件の容疑者アーロン。気弱であどけなさすら漂わせる容疑者と面会した弁護士は無実を確信するが、その若者は、極度の緊張を強いられると邪悪で凶暴な人格に豹変する。ノートンは、鬼気迫る演技で二重人格者に成りきり、しかもラストでは弁護士を完膚なきまでに打ちのめしてしまうのだ。

 ノートンの圧倒的な演技力は、彼が演じるキャラクターが見せる複数の顔や人格によく現れている。『アメリカン・ヒストリーX』のデレクは、激しい怒りと憎しみに駆り立てられるスキンヘッドの白人至上主義者だが、刑務所のなかで、ある黒人の囚人と、白人と黒人ではなく個人と個人として絆を深めることによって、変貌を遂げていく。『ファイト・クラブ』で不眠症に悩まされるジャックの行動は、彼の前に現れた謎の男タイラーの正体が明らかになることによって、別な意味を持つことになる。『スコア』で税関に保管された秘宝の強奪を企むジャックは、知的障害者を装い、清掃員として雇われることで、税関の内部に潜入している。『レッド・ドラゴン』のFBI捜査官グレアムには、「わたしたちが瓜二つだから」というレクター博士の言葉が重くのしかかり、実際、冷酷な一面も覗かせる。

 しかしもちろん、ノートンは、演じがいのある複雑なキャラクターばかりを追い求めているわけではなく、作品のテーマにもこだわっている。特に『ファイト・クラブ』に対する思い入れは強い。ひたすら消費しつづけるだけの生活のなかで、生きている実感すら得られない主人公は、現実と妄想の狭間に激しい闘争の場を作り上げ、やがてそれが消費社会に対するテロにまで発展していく。そんなドラマには、文化の多様性や地域性を奪い、人間や社会を画一化していく市場主義に対する鋭い批判が盛り込まれているのだ。


  《データ》
1996 『真実の行方』

1998 『アメリカン・ヒストリーX』

1999 『ファイト・クラブ』

2000 『僕たちのアナ・バナナ』

2001 『スコア』

2002 『レッド・ドラゴン』

2003 『25時』

(注:これは厳密なフィルモグラフィーではなく、本論で言及した作品のリストです)


 ノートンが、舞台で演技の経験を積み上げてきたニューヨークに対して特別な愛着を持つのも、そんな現実と無縁ではない。この都市にはまだ文化の多様性が残されているからだ。ノートンが監督、製作にも乗りだした『僕たちのアナ・バナナ』は、ニューヨークの記憶やコミュニティが鍵を握る映画だ。幼なじみの親友であるユダヤ教のラビ、ジェイクとカトリックの神父ブライアンは、子供の頃にカリフォルニアに引っ越してしまったアナが戻ってきたことで、三角関係に陥る。しかし男たちは、信仰と恋愛の壁を友情で乗り越え、何よりも仕事を優先するビジネスウーマンだったアナも、異なる価値観に目覚めていく。

 スパイク・リー監督の『25時』でも、ノートンはリーとニューヨークへの想いを共有している。この映画には、グランド・ゼロから夜空に伸びる光の塔やグランド・ゼロを見下ろす高級マンションなどを通して、9・11以後が強調され、それが、絶望の淵に立たされ、喪失感に苛まれる主人公モンティの心情と重なっていく。時として自分を見失う彼は、ニューヨークに生きる様々な人種に対する憎悪すら覚えるのだが、映画は結末で現実と幻想の狭間に、ある意味で『ファイト・クラブ』と対照的な未来への希望を描きだすのだ。

 そして最後に、ノートンが映画化に情熱を傾けているジョナサン・レセムの異色のハードボイルド/青春小説『マザーレス・ブルックリン』にも触れておくべきだろう。ボスを殺した犯人を追ってニューヨークを彷徨う探偵ライオネルは、手足が勝手に動いたり、言葉が暴走するトゥーレット症候群というハンディを背負っている。つまりこの小説では、独自の感覚と論理に突き動かされる若者の視点を通して、ニューヨークという世界が再構築されることになるのだが、そんな主人公を演じられるのはおそらくノートンだけだろう。

 

(upload:2004/05/30)
 
 
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