チャン・ツォーチ・インタビュー

2000年7月 半蔵門
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(初出:「キネマ旬報」2000年9月下旬号)
追想から生まれる成長の物語

 映画「最愛の夏」の出演者は、実際に視覚や知的に障害がある人々を含め、すべてアマチュアの役者たちで占められている。アマチュアを積極的に起用する映画では、いま、ここにあることのリアリティを重視するのが一般的だが、チャン・ツォーチの場合は違う。

「ぼくはアマチュアの役者を使っても、即興とかその場の状況に委ねるような作り方をしたことはない。あくまで自分のヴィジョンがあって、それに近づいてもらうように努めています。ぼくがアマチュアの役者たちと最初にすることは、いつも一緒にご飯を食べることです。彼らを見ながら、それぞれがどんな悩みを抱え、どんな背景を持っているのかを考え、 脚本を書き直すこともあります。こちらから要求を出しすぎれば、彼らが押しつぶされてしまいますから。アギィ役のように知的障害がある人の場合には、普通ならNGになるカットを使うこともあります」

 この映画で印象的なのは、いまとここではなく過去と未来、特に過去だ。ヒロインの父親は、死期が近いことを悟ったとき、大切な記憶を自分の身体でもう一度確認しようとする。ヒロインは、窓の向こうに自分の憧れを投影し、やがてそれは大切な記憶に変わる。チャン監督は登場人物たちを過去と未来のはざまにある存在としてとらえているのだ。

「映画を作っているときにはそんな意識はありませんでしたが、あらためてそう言われてみると、それがぼくの人生観であるように感じます。ぼくが脚本を書くとき大事なのは、自分の過去を振り返ることです。脚本のなかで背景や設定は変わっても、自分の追想に頼っている部分が大きい。この映画もさかのぼってみれば、追想というものを意識するところから作品ができていると思います」

 彼が意識する追想は、ドラマの細部にまでしっかりと反映されている。たとえばヒロインが恋をする少年アピン。母親を亡くし、父親が大陸に戻ってしまい、外省≠ニして疎外される彼は、人気のない海の岩場で、木の棒で空に向かって小石を打ちつづける。


◆プロフィール
張作驥(チャン・ツォーチ)
1961年、台湾の嘉義(チアイー)に生まれる。中国文化大学の映画演劇科を卒業後、ツイ・ハークとイム・ホーの「棋王」、ホウ・シャオシェンの『悲情城市』などで助監督として就く。台湾テレビと公営テレビでテレビドラマを監督し、国立劇場での舞台「這些人、那些人」の監督、脚本を手掛ける。 長編デビュー劇映画は、「暗夜槍聲」(英題はGunshots in the Darkと Midnight Encounterの両方で認知される)となる。これはプロデューサーのジェイコブ・チョンに改竄され、香港と広東の映画祭に招待された。第2作の「忠仔」は、台湾のインディペンデントで製作された。道教の儀式・八家将を修行する少年を主人公にしたこの作品はニューヨーク、 MOMAのNew Directors & New Films映画祭を始め多くの映画祭に招待され、テサロニキで監督賞、プサンでも賞を獲得する。第三作目となる「最愛の夏」は彼自身の独立製作会社で撮った最初の作品となり、やはり「忠仔」と同様、素人や新人をキャスティングしている。本作のアギイ役のハ・ホァンジだけは、「忠仔」からの連続出演で、監督は彼のことを"助監督"だと言っている。
(「最愛の夏」プレスより引用)


「ぼくは海が好きで、海での撮影には胸が高鳴るのですが、ストーリーとしては、そこで人が死んでしまうとか憂鬱な話になってしまいます。アピンについては、映画のなかに彼の子供の頃の思い出話が出てきます。彼の両親が喧嘩をして、母親がまだ小さかった彼を海辺に連れて行ったときに、彼は母親を慰めるために星を落とそうとするというような話です。 (岩場の)彼には、そんな子供の頃から身体に染みついたものが反映されている。過去との繋がりを意味していると思います」

 それからヒロインの弟のアギィ。彼がオモチャの携帯電話で話をする姿は、最初はたわいない遊びに見えるが、そこにも監督の追想に対する意識が反映されている。

「撮影の準備段階で、日常生活の小道具として出演者たちにいろいろなものを渡しますが、そのときアギィの小道具のなかにあのオモチャの携帯がありました。彼の父親はもう亡くなっているのですが、リハーサルを進めているときに彼がその亡くなった父親によく電話していました。それを見て、 本番でもそれをやってくれるように頼んだんです。だからこれはふたりのアイデアですね」

 この映画では、盲人や知的障害者、外省人など誰もが、無意識の動作も含めてそれぞれに過去に想いを馳せている。そんななかでヒロインのカンイだけは、追想に駆られるような過去を持たない無垢な存在として映画に登場し、前向きに生きていく。そして、そんな彼女の憧れが大切な記憶に変わり、 自分なりに過去とともに生きる道を切り開くとき、そこに彼女の成長が見えてくるのである。

 チャン監督の映画がかもし出す空気は、台湾映画の現状とも無縁ではないように思える。

「台湾映画は政府の補助金に頼っていて、それがなければほとんど作れないというのが現状です。その審査員にはテレビ局出身の人も多く、そうなるとテレビのディレクターがお金をさらっていくことになります。映画の機材が普及し簡便になったことで、台湾の監督たちは自分で機材を揃えることができるようになりました。 ほとんど家内工業の世界ですが…。これから先は、一方で通俗的なお笑い映画が生き延びていくと思います。そしてもう一方によりよいインディペンデント映画があり、その中間は無くなっていくでしょう。

 産業の将来という点では、映画作りの環境は悪い方向に向かっている。しかし、映画は根本的に観客に見せるものであって、観客がどんなかたちであれそこに驚きを求め、こちらに観客に伝える何かがある限り、個人的には悲観はないです。ずっと自分たちですべてをこなし、映画を作ってきたのですから」

 決して楽ではないが、悲観はない。それは「最愛の夏」の世界にも通じている。チャン監督は、家内工業という環境を積極的に受け入れ、そこから最良のものを引き出しているといえるのではないだろうか。


(upload:2001/01/05)

《関連リンク》
「最愛の夏」レビュー ■

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