大森一樹インタビュー
Interview with Kazuki Omori


2011年1月 東銀座
世界のどこにでもある、場所/Anywhere in the World――2011年/日本/カラー/97分/ヴィスタ/ステレオ
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(初出:「キネマ旬報」2011年3月上旬号)
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受け継いでゆきたい映画らしい映画
――分かりやすいだけの今の日本映画へのアンチテーゼ
――『世界のどこにでもある、場所』(2011)、『津軽百年食堂』(2010)

■■2000年から大きく変化した日本映画■■

 『世界のどこにでもある、場所』と『津軽百年食堂』。大森一樹監督の新作が相次いで公開される。10年前であれば、それは特別なことではなかったかもしれない。大森監督は2000年代に入る頃までは、年に1、2作品をコンスタントに作り続けていたからだ。もちろん2000年以後も『T.R.Y.』(03)のような大作や『悲しき天使』(06)のような秀作を発表してはいる。だが、今回の新作公開を久しぶりと感じるほどに作品数は減っていた。

「2002年で50歳になったんですね、それでまあ、世代交代かなという感じも(笑)。2000年で映画がすごい変わったんですよ、松竹がブロックブッキングやめて、シネコン中心のプログラムになって。20世紀の最後の方までは、松竹の何月の番組とかね、東映や東宝の何月の番組みたいにプログラムが組まれていたから確実に仕事があったんですよね。番組が決まっていてやったのは『T.R.Y.』が最後かな。映画会社が映画を作らなくなったでしょ。製作委員会が作るようになると、もう映画会社からはオファーが来ない。やりませんかといわれた企画が立ち消えになったり、作ってから一年後に公開されるとか、すごく不安定になった。作品も若い監督たちに行くようになって、そこらへんで世代交代かなっていうのもあったんですよね」

 一方で大森監督は、2000年から大阪電気通信大学、2005年から大阪芸術大学の教授を務めている。

「映画が変わった時期と、大学で教えるようになった時期は重なりますね。大阪芸術大学は中島貞夫監督の後を受けたでしょう。それで中島監督の時からずっと続いている産学協同企画というのがあって、毎年夏に学生とテレビドラマを作るんです。名取裕子さんに来てもらったりしてね。そういうことをしているうちに4年ぐらいがよく分からないまま過ぎてしまいましたね」

 そして、監督としての仕事が減り、不安定になっていく状況のなかで、次第に具体的になっていったのが『世界のどこにでもある、場所』の企画だった。

「10年くらい前のことですが、宝塚ファミリーランドが閉園するから100万円で映画にできないかという話があって、遊園地と動物園にいろいろな人が出入する脚本を書いたんです。でも脚本が遅れたこともあって、取り壊しに入ってしまった。それでサンダンス映画祭の企画募集に出して、最後の10本まで残ったんですけど、電話がきて若い人に譲ってくださいみたいにやんわり言われて、落とされまして。遊園地がつぶれるたびにやろうとはしたんですが、そのうち忘れて数年経った頃に(プロダクションの)ADK Artsからできないかという話がきたんです。これから映画のコンテンツを作っていくのなら、最初はこういう低予算の企画がいいのではないかということもあり、動きだしました」


 
◆profile◆

大森一樹
1952年、大阪市生まれ。77年に『オレンジロード急行』で脚本家の登竜門・城戸賞を受賞し、翌年、同作品で劇場用映画監督デビュー。続いて自らの医学生時代の体験をもとにした『ヒポクラテスたち』(80)でキネマ旬報、報知映画賞など数々の映画賞に輝く。86年、斉藤由貴主演『恋する女たち』で文化庁優秀映画賞、日本アカデミー賞優秀脚本賞・優秀監督賞を受賞。その他、村上春樹原作の『風の歌を聴け』(81)、吉川晃司主演3部作『すかんぴんウォーク』(84)、『ユー・ガッタ・チャンス』(85)、『テイク・イット・イージー』(86)、東宝創立60周年記念作品『ゴジラVSキングギドラ』(91)、織田裕二主演『T.R.Y.』(02)、高岡早紀主演『悲しき天使』(06)、オリエンタルタジオ主演『津軽百年食堂』(10)など、怪獣映画から文芸もの、スター大作まで、良質なエンタテインメント映画作りの第一人者として活躍し続けている。
(『世界のどこにでもある、場所』プレスより引用)


 大森監督がその脚本を書くにあたってインスパイアされたのが、フィリップ・ド・ブロカの『まぼろしの市街戦』(66)だった。戦時下の小さな村を舞台にしたこの映画では、軍隊と精神病院の患者が対置され、正常と異常の境界が揺らいでいく。

「一度やってみたいと思ってたんですよ。そもそもは『冒険者たち』(67)をやりたいと思っていたんですが、もうあちこちでいっぱいやっていて、今さらなので、だったら次は『まぼろしの市街戦』だって。遊園地に精神病院の患者がいっぱいいたらどうなるだろうということから始まった。登場人物の数は最初の脚本と変わってませんが、各自が抱える事情は時代に合わせて書き直しました」

■■何を描かないかが重要■■

筆者がこの映画の試写を観た時、上映前に大森監督の短い挨拶があり、彼は全部を描いてしまわないのが映画だと語っていた。その昔、ジム・ジャームッシュは、“less is more”という言葉で自分のスタイルを説明していた。削れば削るほど空間が広がり、想像の余地が生まれる。何を描くかではなく、何を描かないかが重要だということだ。

「大学で学生のモニターにこの映画を見せて感想を聞くと、最後が腑に落ちないという。だから、いやそれはね、腑に落ちるっていうのはテレビであってね、テレビでこんな終わり方したら視聴者から苦情が来るけど、そこが映画との差なんだと説明するとキョトンとしている。映画っていうのは、ジャングルのどこかに墜ちて生死も不明ですというようなことが許されるし、それが魅力だったはずでしょ。さっき世代交代って言いましたけど、若い人の映画がもう観ていて嫌になってね、ちっとも映画じゃないじゃないかって。映画ってやっぱり省略と飛躍と想像なのに、いまはそれが何もない。全部見せないと観客が納得しない。変わってしまったんでしょうね」===>2ページに続く

 
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