■■2000年から大きく変化した日本映画■■
『世界のどこにでもある、場所』と『津軽百年食堂』。大森一樹監督の新作が相次いで公開される。10年前であれば、それは特別なことではなかったかもしれない。大森監督は2000年代に入る頃までは、年に1、2作品をコンスタントに作り続けていたからだ。もちろん2000年以後も『T.R.Y.』(03)のような大作や『悲しき天使』(06)のような秀作を発表してはいる。だが、今回の新作公開を久しぶりと感じるほどに作品数は減っていた。
「2002年で50歳になったんですね、それでまあ、世代交代かなという感じも(笑)。2000年で映画がすごい変わったんですよ、松竹がブロックブッキングやめて、シネコン中心のプログラムになって。20世紀の最後の方までは、松竹の何月の番組とかね、東映や東宝の何月の番組みたいにプログラムが組まれていたから確実に仕事があったんですよね。番組が決まっていてやったのは『T.R.Y.』が最後かな。映画会社が映画を作らなくなったでしょ。製作委員会が作るようになると、もう映画会社からはオファーが来ない。やりませんかといわれた企画が立ち消えになったり、作ってから一年後に公開されるとか、すごく不安定になった。作品も若い監督たちに行くようになって、そこらへんで世代交代かなっていうのもあったんですよね」
一方で大森監督は、2000年から大阪電気通信大学、2005年から大阪芸術大学の教授を務めている。
「映画が変わった時期と、大学で教えるようになった時期は重なりますね。大阪芸術大学は中島貞夫監督の後を受けたでしょう。それで中島監督の時からずっと続いている産学協同企画というのがあって、毎年夏に学生とテレビドラマを作るんです。名取裕子さんに来てもらったりしてね。そういうことをしているうちに4年ぐらいがよく分からないまま過ぎてしまいましたね」
そして、監督としての仕事が減り、不安定になっていく状況のなかで、次第に具体的になっていったのが『世界のどこにでもある、場所』の企画だった。
「10年くらい前のことですが、宝塚ファミリーランドが閉園するから100万円で映画にできないかという話があって、遊園地と動物園にいろいろな人が出入する脚本を書いたんです。でも脚本が遅れたこともあって、取り壊しに入ってしまった。それでサンダンス映画祭の企画募集に出して、最後の10本まで残ったんですけど、電話がきて若い人に譲ってくださいみたいにやんわり言われて、落とされまして。遊園地がつぶれるたびにやろうとはしたんですが、そのうち忘れて数年経った頃に(プロダクションの)ADK Artsからできないかという話がきたんです。これから映画のコンテンツを作っていくのなら、最初はこういう低予算の企画がいいのではないかということもあり、動きだしました」
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