まだドラマの助監督をしている頃に、メリーさんという題材に出会った彼は、そのかたちを具体化するために、ドキュメンタリーの勉強を始める。意外に思えるのは、彼が選択したのが、北京電影学院だったことだ。
「十代後半で『ワイルド・スワン』(ユン・チアン著)を読んですごい衝撃を受けて、それから毛沢東や文革の本を読み漁り、文革の影響を受けた第五世代の作品をずっと観てきました。それこそ文革なんて、私が生まれる直前まであったわけじゃないですか。中国のこの原動力は何なんだって。私が北京電影学院にいた時期には、チェン・カイコーやチャン・イーモウを教えた先生たちがまだいて、実は彼らは、ドキュメンタリーを専門にしている人たちだったんです」
中村監督は、北京で勉強し、学校が休みになると日本に戻って、『ヨコハマメリー』の撮影を進めた。そんな彼が中国で得たものは、理論や技術だけではない。
「『ヨコハマメリー』に出てくるのは、この人をそのまま丸ごと撮りたいと思って取材した人ばかりなんです。そういう気持ちは、中国に行ってより強くなった。中国人と日本人にはスタンスが違うところがあって、中国人は感情で攻めてくる。日本人みたいに社交辞令も言わないし、壁もない。こちらが本音で話していけば、向こうも本音で答える。自分が人とどう向き合うかということについては、中国人から教えられた部分がある。最初は取材するときに、頭であれこれ段取りを考えてたんですけど、中国に行ってからそれがなくなった。映画を観てもらえばわかるように、ただ雑談し、話の腰を折ったり、かぶったりしているところもあるんですけど、それでも素の私を受け入れてくれて、関係性が培われるだけでいいじゃないか。そういう人間対人間の関係を撮りたいと思ったんです」
メリーさんと親交のあったシャンソン歌手の永登元次郎、彼女を温かく見守り続けたクリーニング店や化粧品店の店主たち、GIや娼婦の溜まり場だった根岸屋を知る元愚連隊のおじさんたち。この映画に登場する人々の姿と話からは、中村監督の「共同体のなかで作り上げていく方法論」が見えてくる。それは、消えたメリーさんを媒介として、歴史に埋もれた共同体を甦らせていく作業といえる。
「メリーさんて、横浜ではある意味で聖域になっていて、気軽に表現できない人なんです。長年に渡ってメリーさんと接してきた人たちには、みんな自分なりのメリーさんがあって、その想いや感情は完結してしまっている。横浜って都会的に見えるけど、地元の人間にすれば地方都市というか田舎で、先輩後輩とか上下関係がある。だから最初は、こんな若造が興味本位でメリーさんを撮ろうとしていると思われて、かなり反発がありました。
実をいうとこの映画、関係を作るまでが大変で、あとは大した苦労はなかったんです。ドキュメンタリーというとすぐにカメラを持っていく人もいますが、私は映像作家ではなく、地元の若者としてそこに入っていき、どう敬意を払い、向き合うかだけを心がけた。まず何度も通って、関係ができてからカメラを持っていくと、それを付属物のような感覚でとらえてくれる。逆にいうと、メリーさんという題材だったから、この方法論が生まれたのではないか。こういうアプローチでないと、取材、撮影ができなかったかもしれない」===>2ページに続く |