原作者のブライアン・ツェー(謝立文)と原画家のアリス・マク(麥家碧)のコンビが生み出した「マクダルとマクマグ」のシリーズは、マンガや絵本からテレビ・アニメ、そして映画へと進出し、地元香港で大人たちも巻き込む社会現象を引き起こしたという。そんなシリーズの軌跡と香港の置かれた状況の変化は密接に結びついているように見える。
香港の返還が決定したのが84年で、89年の天安門事件の衝撃を経て、返還に至る90年代の香港では、当然のことながら香港や香港人であることが強く意識されるようになった。そして返還後は、「一国二制度」という現実と向き合っている。
一方、「マクダルとマクマグ」のシリーズは、91年にマクマグを主人公としたマンガの連載が始まり、94年に母子家庭で育つマクダルが登場すると同時に、物語に社会的な要素を盛り込むという転換を図り、より大きな注目を集めるようになった。そして97年からケーブルテレビでアニメの放映が始まり、2000年にそれが終了すると、2001年からは映画の公開が続いている。
その映画化の第二弾となるこの『マクダル パイナップルパン王子』では、マクダルの父親の物語が語られることによって、香港に対する視野がさらに大きく広がっていく。母親からパイナップルパン王子の物語を聞かされたマクダルは、それが父親の物語だと察し、「パパは過去≠ノいた。ママは未来≠ノいた。僕だけが現在≠ノいる」と語る。
だが、この映画やその中で語られる物語を流れる時間は、決してそんな単純な図式には収まらない。パイナップルパン王子の物語は、気づかぬうちに愚かなオヤジになってしまった父親が、過去を取り戻すことを正当化するために創作したもののようでもあり、未来しか見るつもりのない母親が、過去に逃避する父親を貶めるために創作したもののようでもあり、さらには、その内容の退屈さに辟易したマクダルが、独自の解釈を加えているようにも思えてくる。
つまり、王子の物語の中では、彼らの思いがせめぎ合い、次第に過去、現在、未来が複雑に入り組み、現実と物語の境界すら曖昧になっていく。
しかし、この混沌とした空間からは、確かに香港という世界が見えてくる。振り返ってみれば、大陸に共産党政権が誕生して香港に難民が流入し、その一世から香港生まれへと世代交代が進み、香港社会が形成されたのは、決して遠い昔のことではない。
ところがそんな社会にまた返還という断層が生じ、さらにウォン・カーウァイの『2046』というタイトルが物語るように、未来にも断層が準備されている。ただ現在を生きている人々の前に、帰属や政治体制、他者性をめぐって次々と断層が出現し、直線的な時間の流れは分断され、複数の過去・現在・未来となり、それぞれに選択を迫られる。マクダルが暮らす町・大角咀に押し寄せる再開発の波も、時間の断層と呼応している。
この映画は、そんな複数の過去・現在・未来を自在に往復することによって、これまでにない新たな次元から香港とその固有の歴史をとらえているのだ。
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