バフティヤル・フドイナザーロフ・インタビュー

2000年5月 渋谷
ルナ・パパ/Luna Papa――1999年/ドイツ=オーストリア=日本/カラー/107分/ヴィスタ/ドルビーSRD
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(初出:日本版「Esquire」2000年7月号、大幅に加筆)

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胎児のリズムと飛行と国家の再生
――『ルナ・パパ』(1999)

 内戦下のタジキスタンで映画を作りつづけ、現在ではヨーロッパを拠点に活動するバフティヤル・フドイナザーロフ監督。彼にとって3作目の長編となる新作「ルナ・パパ」では、顔も知らない男に誘惑され、身ごもった少女マムラカットが、兄や父とともにお腹の子の父親を探すドラマを通して、 不思議な世界が広がっていく。

「少年、機関車に乗る」の機関車、「コシュ・バ・コシュ」のロープウェイのように、フドイナザーロフの作品では乗り物が重要な役割を担う面白さがあるが、この新作も例外ではない。「ルナ・パパ」では飛行機が物語の鍵を握ることになるのだ。

 しかし表現のスタイルという点では、 前2作とはまったく違う。監督自身がこの映画を“ファンタスティック・リアリティ”と表しているように、一見ファンタジーのように見えながら、現実が反映された作品になっているのだ。

――「ルナ・パパ」を観てまず驚いたのは、映画の最初から最後まで次々にいろいろな出来事が起こり、場面もどんどん移り変わるにもかかわらず、ドタバタしているような印象を与えない。確かに最初はあわただしく見えますが、ドラマが進むにしたがって、映画のリズムに同化するというか、 実際のドラマのテンポは変わっていないのに、物語はゆったりとうねっているように感じられ、その落差が不思議だったのですが。そういうスタイルというか、リズムは意識していましたか。

バフティヤル・フドイナザーロフ(以下BK)そうです、意識していました。この映画でとても重要なのはリズムなんです。そのリズムというのはただ単にリズムがあってということではなく、いまおっしゃった落差みたいなもの、そうしたリズムとリズムを結び付けて、しかも観る人にとって一種のダンスとなるような、そういうリズムを意識しました。

――これまでの作品とはリズムがまったく違うと思うのですが、そのリズムの鍵になっているものは何なのでしょうか。

BK それぞれのストーリーは、独自のリズムを要求するものなんです。今回は非常にリズムに溢れています。なぜなら、胎児の視点から見ているからです。日本では胎児がお腹のなかにいるのは10ヶ月といいますけど、その10ヶ月間、胎児は、心理状態などとは無関係に、ただ本当にクレイジーなリズムのなかで生きている。お腹から出てしまうと、 今度はまた異なるリズムでの生活が始まります。私は、この羊水のなかのクレイジーなリズムに、心理というものが生まれる前の本質的な生命を感じるのです。この映画は、胎児が語り手なので、そのリズムを持ってきたわけです。

――これまでの3本の作品を振り返ってみると、兄弟の物語である「少年、機関車に乗る」では母親が不在で、長男が母親のイヤリングをお守りがわりにしています。「コシュ・バ・コシュ」も、ヒロインの家庭に関していえば母親が登場しません。新作の主人公一家も母親が不在で、 ヒロインがこれから母親になっていく物語であるというように、母親の存在が逆の意味で印象に残るのですが、母親というものに対して特別な意識はありますか。

◆プロフィール
バフティヤル・フドイナザーロフ
1965年、タジキスタン共和国の首都ドゥシャンベに生まれる。ドゥシャンベの国立ラジオ・テレビ委員会でジャーナリストとして働いたり、子供向けのテレビ番組の脚本家や助監督をした後、20歳の時にモスクワに移り国立映画学校(VGIK)の監督科に入学。 在学中の1986年、プーシキンの小説「悪魔」を原作に『ジョーカー』を撮るが、脚本もなく、映画の形態がとても自由なものであったため、教授陣には気に入られなかったようだ。1989年に撮った短編『信じられないかもしれないが』はカルロヴィ・ヴァリ映画祭ヤング・フォーラム部門に出品される。 89年に同校を卒業、郷里のドゥシャンベに戻って26歳の時に初の長編映画「少年、機関車に乗る」を撮る。このデビュー作はトリノ映画祭、マンハイム映画祭でグランプリを受賞したほか、ナント映画祭では観客が選ぶグランプリと国際批評家賞を受賞、ベルリン国際映画祭や香港映画祭などにも出品され、 各国で非常に高い評価を受けた。93年、長編第2作にあたる「コシュ・バ・コシュ――恋はロープウェイに乗って」を撮影、内戦下でのみずみずしいラブ・ストーリーを描き、見事同年のヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。この作品は、フライブルグ映画祭のグランプリも受賞、 トロント映画祭、東京国際映画祭にも出品、前作に引き続き世界中で話題になった。
(「ルナ・パパ」プレスより引用)

 

 


BK 私たちは子宮の外に出て、結局、母親から離れ、巣立っていくという現実があります。しかし、母親のしずくというか、母親の傍にいたときのその感覚というものを、それぞれの作品のなかで何とか伝えたいといつも思うんです。だから、母親というものがある需要に基づくひとつの対象になってしまわないように、あえてそれを排除する。 排除するとはどういうことかというと、人は母親の不在によって抑圧され、自分に欠けているものを探そうとする、そういう緊張感のようなものを生みだすということです。これは私の話法というか、ドラマツルギーなんです。そんなふうにして、あなたが的確におっしゃったように、母親の存在、目に見えない存在というものを伝えたいと思ってきたわけです。

――あなたの個人的な体験がそうした表現に影響を及ぼしているということはありますか。

BK 私の母親と私の関係はごく普通で、個人的な体験を持ち込むというよりは、むしろ哲学的なものだと思います。唯一、個人的な要素があるとすれば、いつか母親を失う、それは大きな事件であり、私たちは心の準備をしていかなければならない、そうした一種の不安ですね。そういう要素は作品に持ち込んでいます。でもこれは、 私と母親の個人的な関係を持ち込んでいるということではありません。

――あなたの映画では必ず乗り物が出てきます。たとえば機関車を運転手が自分の家で止めたりとか、ロープウェイを私物化して自由に使うことには、浮遊感というか解放感があります。新作の飛行機のパイロットも、勝手に飛行機を着陸させて、情事にふけるとか、同じ私物化のイメージがあることはありますが、 この映画では、乗り物がもっと別な効果を発揮しているように思えるのですが。

BK 新作で非常に重要な乗り物は飛行機ですが、実は私は飛行機に乗るのがとても怖いんです。でも同時にとても好きなんです。あんな大きな物が空を飛ぶという事実にすごく惹かれるわけです。それでも怖いので、空中の撮影については私は直接参加せず、地上からモニターで見てました。 私は、私が傍にいる必要があるならすべて地上で撮ろうと言いました。だから飛んでいるように見えて、実際には飛ばずに撮影した場面もあります。飛行機の周りに雲を作って、大勢のスタッフが両翼に乗って機体を揺らしたんです。

あと、パイロットについては凄い話がいろいろあります。向こうのパイロットはみんな飲むのが好きで、特にウォッカをよく飲みます。で、ひどい二日酔いでも飛ばなければなりません。そんな時、彼らは翼にしっかりつかまって、少し飛んでもらう。それで着陸すると二日酔いはすっかりなくなっているというわけです。 信じられないかもしれないけど、本当です。彼らはほんとにクレイジーです。飛びながら狩りもします。空から鹿などを見つけると、低空飛行をして、車輪を出して、それで倒してしまうんです。今回の私の映画でも、パイロットたちがクレイジーなパワーを発揮しているのです。 ===> 2ページへ続く

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