安田と優子の出会いは、まず演出とカメラワークが印象に残る。廣木監督は、歩道橋の階段で安田が薬莢を落としてから、彼がタイヤ怪獣によじ登るまでの一連のドラマで、安田の人間や性格を描くと同時に、優子を彼の少年時代に引き込む。さらに、滑り台から巨大なタイヤのブランコに至る一連のドラマで、彼女を安田の初恋の時間へと巧みに引き込んでしまう。安田は、そんな過去に執着すると同時に、喪失感に苛まれる。そして、優子にもまた、本当は忘れがたい過去があり、喪失感に苛まれている。
この映画は、優子と彼女の従兄である祥一を中心とした物語だが、このような彼女と三人の男たちとの関係を踏まえてみると、ふたりの主人公の関係がより鮮明になってくる。なぜなら、祥一と三人の男たちには、密接な結びつきがあり、印象的なコントラストを生み出しているからだ。
それはたとえば、Kさんと優子が、車のなかでプレイしている場面である。Kさんと同じように幻想に逃避する優子は、バイブで自分を刺激しながら、地下鉄サリン事件で恋人を失った悲劇のヒロインを演じている。ところが、信号待ちしているときに、祥一の運転する車が横に並び、それに気づいた彼女は、演技をやめて慌てて隠れる。この場面は、祥一が、優子=アリスに、乗り越えるべき壁を自覚させる存在であることを暗示している。
幼なじみの祥一には、大袈裟な嘘は通用しない。彼は、優子の固いガードをたやすくすり抜けてしまう。彼が最初に優子のアパートに上がりこむ場面では、タイヤ公園と同じように、長回しが素晴らしい効果を生み出している。彼は、東京に出てきた事情を説明しながら、冷蔵庫から勝手にビールを取り出したかと思うと、今度は酒のボトルとグラスをテーブルに運び、あれよあれよという間にその空間に溶け込んでしまうのだ。
そして、優子と居候となった祥一の間には、始まりも終わりも定かではなく、男女の関係ともいいがたい触れ合いが生まれる。ふたりの時間に奥行きをもたらしているのは、もちろん三人の男たちと祥一のコントラストである。優子は、そんな触れ合いのなかで、幻想に逃避することをやめる。祥一とともに、遠い記憶をたどりなおすことで、喪失感を拭い去っていく。身体と心の傷は、もはやハンディキャップだと思わなければならないものではなくなり、裸の自分と向き合えるようになる。そして、カーテンで閉ざされた暗闇から、日の光のなかに出て行く。
この映画には、"Alice's Restaurant"に始まり、タイヤ怪獣、尾崎豊の曲、うどんとそばという金魚の昔話、姫と殿という愛称、蔦の象など、それだけを見れば、安易な感傷を招いたり、稚拙ととられかねないエピソードが散りばめられている。にもかかわらず、それらを含めた現代のアリスの物語が、われわれの心を揺り動かすのは、この映画が、正真正銘の"大人のメルヘン"であるからなのだ。 |