やわらかい生活

2005年/日本/カラー/126分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:『やわらかい生活』劇場用パンフレット、若干の加筆)
正真正銘の“大人のメルヘン”

 『やわらかい生活』のヒロイン橘優子は、一流大学を出て、一流企業の総合職に就き、エリート街道をまっしぐらに突き進んでいるはずだった。ところが、両親と親友の突然の死をきっかけに鬱病を患い、いまでは薬が手放せないどん底状態にある。そんな彼女はひょんなことから蒲田に引っ越し、デジカメ片手に町を散歩し、蒲田を紹介するHPを作り、銭湯でくつろぐようになる。

 この映画に描かれる蒲田は、現実の蒲田であって、現実の蒲田ではない。優子は、"Alice's Restaurant"というサイト(そのマスコットは白ウサギの格好をしている)で、合意の痴漢の相手を探す建築家のKさんと出会い、蒲田へと導かれる。そして彼女は、不思議の国に迷い込んだアリスとなる。アリスにとって不思議の国とは、癒される場所ではなく、冒険の場所であり、そこには乗り越えなければならない壁がある。優子が越えなければならない壁は、男たちを通して実に巧みに示唆されている。彼女は蒲田で、建築家のKさんや大学の同級生で都議会議員候補の本間、子煩悩で鬱病のヤクザの安田に出会う。それぞれに現実に順応しきることができず、密かに煩悶している彼らは、実は、鏡に映し出された優子自身の姿でもある。

 建築家のKさんは、リッチで優雅な生活をしているように見える。しかし映画の終盤で優子は、彼の日常を垣間見る。映画の冒頭で、Kさんと優子は、他の場所で落ち合い、場末の映画館を求めて蒲田にやって来たはずだった。だがどうやら、彼は蒲田に住んでいるらしい。彼の車を使ってプレイするとき、優子は、「奥さんの指定席」に気を使うが、それはどうも彼の愛車ではないようだ。おそらく彼は建築家でもない。Kさんは、平凡な日常から逃避するために、優雅な痴漢という幻想を作り上げている。

 優子もまた、自然体であるかのように見えて、実は幻想を作り上げている。彼女は、自分の個人的なことに話題が向くと、両親は阪神・淡路大震災で、親友は9・11テロで、恋人は地下鉄サリン事件で死んだと、その場その場で嘘をふりまく。後に彼女は、悲しみを共有する仲間がほしかったからと語るが、そうすることで自分を固くガードし、Kさんと同じように、本来の自分を隠している。

 本間は、EDをハンディキャップとみなしている。もし彼がEDでなければ、会社を辞めて、立候補することもなかっただろう。彼は、EDと向き合うのではなく、都議会議員になることで男になろうとする。優子にも、ハンディキャップとみなしているものがある。彼女は、銭湯でいつもタオルを身体に巻き、若気の至りで刺青を入れてしまったと説明する。彼女の身体と心の傷は、彼女自身が満たされるセックスをする妨げになっている。だから、本間が彼女の誘いに応じたとき、ふと表情が変わり、これからまた自分を偽る成り行きのセックスをしてしまうことに、内心で苛立つのだ。


◆スタッフ◆

監督   廣木隆一
脚本 荒井晴彦
撮影 鈴木一博
編集 菊池純一
音楽 nido

◆キャスト◆

橘優子   寺島しのぶ
橘祥一 豊川悦司
本間 松岡俊介
Kさん 田口トモロヲ
安田 妻夫木聡
橘昭夫 柄本明
バッハ 大森南朋

(配給:松竹)
 


 安田と優子の出会いは、まず演出とカメラワークが印象に残る。廣木監督は、歩道橋の階段で安田が薬莢を落としてから、彼がタイヤ怪獣によじ登るまでの一連のドラマで、安田の人間や性格を描くと同時に、優子を彼の少年時代に引き込む。さらに、滑り台から巨大なタイヤのブランコに至る一連のドラマで、彼女を安田の初恋の時間へと巧みに引き込んでしまう。安田は、そんな過去に執着すると同時に、喪失感に苛まれる。そして、優子にもまた、本当は忘れがたい過去があり、喪失感に苛まれている。

 この映画は、優子と彼女の従兄である祥一を中心とした物語だが、このような彼女と三人の男たちとの関係を踏まえてみると、ふたりの主人公の関係がより鮮明になってくる。なぜなら、祥一と三人の男たちには、密接な結びつきがあり、印象的なコントラストを生み出しているからだ。

 それはたとえば、Kさんと優子が、車のなかでプレイしている場面である。Kさんと同じように幻想に逃避する優子は、バイブで自分を刺激しながら、地下鉄サリン事件で恋人を失った悲劇のヒロインを演じている。ところが、信号待ちしているときに、祥一の運転する車が横に並び、それに気づいた彼女は、演技をやめて慌てて隠れる。この場面は、祥一が、優子=アリスに、乗り越えるべき壁を自覚させる存在であることを暗示している。

 幼なじみの祥一には、大袈裟な嘘は通用しない。彼は、優子の固いガードをたやすくすり抜けてしまう。彼が最初に優子のアパートに上がりこむ場面では、タイヤ公園と同じように、長回しが素晴らしい効果を生み出している。彼は、東京に出てきた事情を説明しながら、冷蔵庫から勝手にビールを取り出したかと思うと、今度は酒のボトルとグラスをテーブルに運び、あれよあれよという間にその空間に溶け込んでしまうのだ。

 そして、優子と居候となった祥一の間には、始まりも終わりも定かではなく、男女の関係ともいいがたい触れ合いが生まれる。ふたりの時間に奥行きをもたらしているのは、もちろん三人の男たちと祥一のコントラストである。優子は、そんな触れ合いのなかで、幻想に逃避することをやめる。祥一とともに、遠い記憶をたどりなおすことで、喪失感を拭い去っていく。身体と心の傷は、もはやハンディキャップだと思わなければならないものではなくなり、裸の自分と向き合えるようになる。そして、カーテンで閉ざされた暗闇から、日の光のなかに出て行く。

 この映画には、"Alice's Restaurant"に始まり、タイヤ怪獣、尾崎豊の曲、うどんとそばという金魚の昔話、姫と殿という愛称、蔦の象など、それだけを見れば、安易な感傷を招いたり、稚拙ととられかねないエピソードが散りばめられている。にもかかわらず、それらを含めた現代のアリスの物語が、われわれの心を揺り動かすのは、この映画が、正真正銘の"大人のメルヘン"であるからなのだ。


(upload:2007/02/17)
 
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