廣木隆一監督の『M』は、馳星周の同名中篇集の映画化だが、映画には原作とは異なる世界がある。原作は4本の中篇からなり、それぞれの作品の主人公たちは、ある出来事をきっかけに妄想や欲望に溺れ、自分を見失っていく。作品が掘り下げるのは、彼らの内面であり、その世界は閉じているといえる。これに対して映画では、4本の中篇が巧みに結び付けられ、主人公たちが交差するところから独自の世界が切り開かれていく。
映画で物語の中心人物となるのは、夫の秀之と息子と郊外で平穏な生活を送る聡子だ。心のどこかに満たされない思いがある彼女は、携帯サイトへの書き込みをきっかけに情事を重ね、やがてヤクザの俵に捕まり売春を強要されるようになる。原作では、彼らの関係は、覚醒剤を打たれた聡子が意識を取り戻すと、目の前に俵の死体が横たわっているという展開によって、あっけなく終わりを迎える。しかし映画では、彼らの関係にもうひとりの人物が絡み、俵を殺す場面が重要なクライマックスとなる。
そのもうひとりの人物とは、住み込みで新聞配達をしている少年・稔だ。聡子に理想の母親の姿を見ている彼は、事情を察知し、彼女を救おうとする。客を装ってラブホテルで待ち受け、聡子に俵を呼び出させ、殺そうとするのだ。そこには、父殺しの図式を見ることができる。稔には、暴力を振るわれる母親を助けようとして、父親を刺し殺した過去がある。ところが、クライマックスの緊迫した状況のなかで、その図式は確実に揺らぎ、奇妙に歪んでいく。それがこの映画の興味深いところだ。
俵と聡子や稔の間には、目には見えない境界がある。俵の行動や感情には、まったくブレがない。彼は、欲求不満を抱えた素人が、自分の領分に勝手に入り込んできて、好き放題していることに怒りを覚えている。だから聡子に、決まりというものを思い知らせようとする。これに対して、聡子と稔の行動や感情には、ブレがある。なぜなら、彼らはそれぞれに過去を引きずっているにもかかわらず、心の傷や痛みと向き合うことができず、屈折しているからだ。
聡子が売春を強要されているにもかかわらず、悦びを覚えるのは、必ずしも身体が感じるからではない。彼女は、子供の頃に隣に住んでいた少年の父親に普通ではない強い憧れを抱き、その想いを隠して少年と付き合っていたことが、いまも心にわだかまっている。しかし、彼女はそんな過去と向き合うのではなく、利用されていることを知った少年が両親を殺害したという物語を作り上げ、罪悪感に囚われている。 |