双子であるマイケルとマークのポーリッシュ兄弟が脚本を書き、マイケルが監督した『ツイン・フォールズ・アイダホ』は、簡単には言葉にしがたい不思議な雰囲気を持った作品である。映画の冒頭から浮かび上がる怪しげなホテルや結合性双子という異形の存在の登場は、一見デイヴィッド・リンチ風の世界を連想させるかもしれない。
しかしその後のドラマからは、リンチとはまったく異質な世界が広がっていく。この映画の場合は、結合性双子の特異なイメージを前面に押しだそうとはしない。しかも、そんな兄弟が母親を探したり、ペニーとの三角関係のなかで葛藤するような物語の展開は、むしろ正統的といってもおかしくない。但し、物語は正統的でも、それを語るスタイルは非常にユニークだといえる。
このドラマは、緻密な計算に基づいて作り上げられている。監督及び脚本家としてのポーリッシュ兄弟は、説明的な台詞をできるだけ排除し、独自の映像表現を通して、登場人物たちの人間としてのあり方や心理を鋭く掘り下げていく。彼らの表現でまず注目したいのは、登場人物たちの本来の姿と仮の姿の対照や人物と空間の結びつきだ。
主人公のフォールズ兄弟はその異形ゆえに世間から疎外され、怪しげなホテルの一室に引きこもっている。ペニーは娼婦としてその部屋を訪れる。モデル志望で、強い自意識を持っている彼女にとって、娼婦は経済的な苦境をしのぐための仮の姿といえる。しかし兄弟の姿を目の当たりにしたとき、その仮の姿は剥げ落ち、本来の自分としてその場から逃げだす。
ところが、兄弟のひとり、フランシスが病気であることがわかり、兄弟と接するうちに、彼らを見る目が変わる。彼女は最初、双子とはいっても肉体のみならず人格的にもその境界が曖昧で、単体としか認識できないために拒否反応を起こす。だが、そんな兄弟が異なる人格や生理を持ち合わせていることを知るに及んで、今度は自分の価値観や存在の方が揺らぎ始める。
この映画は登場人物たちの過去や背景について、多くを語ろうとはしないが、ペニーがある種のコンプレックスを抱えていることを察するのは難しいことではない。彼女にとって娼婦という仮の姿は、実際には決して経済的な苦境をしのぐためだけにあるのではない。彼女は目的を持ってはいるが、コンプレックスや自意識ゆえにその結果を恐れ、モデル志望という可能性を確保した立場と娼婦という仮の姿に安らぎを覚えている。
そんなふうにして彼女は自分のバランスをとろうとしてきたが、いまは家賃も払えないほど追いつめられている。彼女は孤独をかみしめ、自分の惨めな状況を呪っているはずだ。しかし、生まれたときからずっと時間と空間、そして肉体の一部を共有してきたフォールズ兄弟を前にすると、そんな仮の姿や孤独の意味そのものが揺らぎだすのだ。だからこそ彼女は、フランシスとの宿命的な絆を生きるブレイクに惹かれ、彼もまた孤独に生きるペニーに惹かれるのだろう。 |