この映画「チャパクア」を実際に観るまで、筆者にとってこの題名が意味するものは、まず何よりもフリージャズの先駆者オーネット・コールマンが66年に発表した「チャパクア組曲」だった。これは筆者のお気に入りのアルバムである。フランス人のジャズ雑誌の編集者が書いたこのアルバムの解説には、
この作品の誕生の経緯がこんなふうに説明されている。
「チャパクア」はコンラッド・ルークスというアメリカ人の新鋭監督のデビュー作で、彼は4年を費やして世界をまわり、彼のメッセージをフィルムに刻み込んだ。そして作業も最終段階にさしかかったとき、映画の音楽をオーネットに依頼することを思いついた。
オーネットは大編成のミュージシャンたちとスタジオにこもって作品を作り上げた。ところがルークスは、この音楽を使うことを躊躇し、結果的には他のミュージシャンに音楽を依頼し、オーネットのファンのために作品をレコード化する話を持ちかけた。それが「チャパクア組曲」なのだ。
筆者はこの映画を観ることがあったら、映画がオーネットにどのようなインスピレーションをもたらし、またなぜ彼の音楽が使われなかったかということも考えてみたいと思っていた。そして、実際に映画を観て自分なりに納得できるものがあったし、この音楽変更という事実そのものがこの映画の魅力を物語っているようにも思えた。
映画「チャパクア」はビート的な作品であり、それは言葉をかえれば極めて個人的な作品だといえる。ビート・ジェネレーションというような表現を目にすると、そこにはいかにも同じ方向に向かう明確なムーヴメントが存在するような錯覚をおぼえる。しかし本来ビートとは、たとえばドラッグや音楽を通して他者と感覚を共有するようなものではなく、
あくまで個人の探求であり、個人を掘り下げることから結果として社会が浮き彫りにされることにもなる。
この映画にはバロウズやギンズバーグを筆頭に注目すべき人物が次々と登場するが、これは決して彼らの才能を結集した作品でもなければ、ビートの記録映画でもなく、その魅力はルークスの徹底した個人の探求にある。それは彼の原体験のひとつである映画が、
幻覚のなかに突拍子もないイメージで再生されるところにもよく現われている。 |