それぞれに喪失や孤独を背負う男たちは、その真価が理解されず、不遇にあるシービスケットと出会うことで、そこに自分たちの居場所を見出す。同じ頃、アメリカでは、ニューディールによって、社会から孤立し、忘れられた人々に対して救いの手がさしのべられる。そして、シービスケットが初めて勝利を収め、男たちと馬がひとつになったとき、歴史の証人であるナレーターは、「長い不況を追い払ったのは、公共事業の力ではなく、目に見えない力」だったと語る。そこには、政府による救済に頼るだけでは、本当に立ち直ることはできない。自分たちで希望を取り戻し、逆境を乗り越えない限り、未来は見えてこないという意味が込められている。
そして、そんな姿勢は、シービスケットとウォーアドミラルの東西対決へと発展していく。ヒレンブランドの原作には、こんな記述がある。「競馬界のエリートと支配層の本拠地である東部には、アメリカの伝統あるレースと厩舎がすべて集中していた」。ウォーアドミラルの馬主であるリドルは、そんな「東部競馬界のエスタブリッシュメントを体現する人物」である。これに対して、ハワードは、東部出身で、裕福な家庭に育ったにもかかわらず、恵まれた立場を捨て、ほとんど一文無しの状態で西部へとやって来た。つまりこの東西対決は、伝統と格式を重んじる東部エスタブリッシュメントと、過去を捨て、ゼロから未来を切り開こうとする人々との対決でもあるのだ。
『シービスケット』は、大恐慌の時代の空気をとらえることによって、素晴らしいダイナミズムを生みだす。しかし同時にこの映画には、時代を越えたメッセージも盛り込まれている。映画は、フォードが生みだした大衆車のエピソードから始まるが、ここでナレーターが強調しているのは、決して車ではない。「真の発明は車ではなく、"流れ作業"の工程だった」。合理性だけを追求する作業ラインは、他の産業でも次々に取り入れられ、40年代末には飲食店にまで波及し、外食産業に大変革をもたらす。作業ラインは間違いなく画期的な発明だが、それによって人間の創造性は確実に失われていく。経験豊かな職人が、創造力を発揮し、ひとつのものを丹精こめて作り上げていく場が駆逐されていくからだ。
ゲイリー・ロスの前作『カラー・オブ・ハート』には、この作業ラインに対する痛烈な風刺が盛り込まれている。50年代のホームドラマの世界に紛れ込んだデイヴィッドは、ダイナーでバイトしているが、そこではチーズバーガーの注文が入っても、店主のビルひとりではそれを作ることができない。作業ラインで、デイヴィッドがレタスをのせることになっているからだ。デイヴィッドはそんなビルを呪縛から解き放ち、ビルは絵の才能を開花させる。『シービスケット』は、作業ラインに象徴される徹底した合理化に順応しない、あるいは取り残された男たちと馬が、埋もれた経験や才能を引き出しあい、創造力を発揮していく物語なのだ。
そしてもうひとつ、少年時代のポラードが、エミリ・ディキンスンの詩を暗誦する場面にも注目しておくべきだろう。この19世紀の女性詩人は、未開の土地を切り開いていくフロンティア精神に対して、人間の内なる世界を探求し、人間のなかに眠る可能性の大きさを空や海にたとえた。ポラード少年の暗誦にある「背は空にも届く」という言葉にも、それが現れている。
監督のロスがこの詩を強く意識していることは、ポラード少年からハワードにドラマが切り替わったところで明らかになる。車の販売で成功し、順風満帆のハワードは、「ここ西部では、手は天にも届くのだ」と語る。ディキンスンの詩の"空"とハワードの言葉の"天"は、この時点ではまったく意味が違う。ハワードはただビジネスで成功したに過ぎない。しかし、彼がスミスとポラード、そしてシービスケットに出会い、4者がお互いのなかに眠る可能性を引きだすとき、彼らは、天にも届く「英雄の資質」の持ち主となる。
『シービスケット』は、悲惨な大恐慌の時代に希望を生んだ奇跡の物語であると同時に、画一化された現代社会のなかで失われていく個人の無限の創造力を賛える映画でもあるのだ。 |