『地獄の黙示録 特別完全版』は、オリジナル版に53分の未公開映像が加わり、再編集されている。追加された映像は、大きく四つに分けられる。ウィラード大尉を乗せた巡視艇が川を上る場面、及びカーツ大佐が登場する場面に大幅な追加がある。さらに、ウィラードの一行がガス欠で立ち往生しているプレイボーイのヘリに遭遇し、燃料とセックスの取引をするエピソードと、同じくウィラードたちがフランス人の植民者たちと出会い、彼らの農園で政治の話をするエピソードが盛り込まれている。
この未公開映像の追加と再編集は、作品全体の印象も大きく変える。それはウィラードの立場に最も端的にあらわれている。オリジナル版ではウィラードは、カーツ大佐と対峙するまで、ほとんど傍観者として目の前で起こることを見つめつづけるしかなかった。しかし『特別完全版』では、川をさかのぼるにしたがって、傍観者からしだいにドラマのなかに入り込んでいくのだ。
コッポラはオリジナル版では、ドラマの要素を排除し、過剰なスペクタクル・シーンだけを繋ぎ合わせることで異様なダイナミズムを生みだした。それは正しい選択だったといえる。というのもこの映画には、コンラッドの「闇の奥」、ヘリ部隊が騎兵隊と呼ばれている事実だけで血が沸き立ち、戦場のサーフィンに興奮するジョン・ミリアスの脚本、当初この企画に深く関わり、自分が監督できなかったことを後々まで悔やみつづけるジョージ・ルーカスの視点、現場におけるたび重なるトラブルなど、様々な要素が入り組み、そこにある種の一貫性を持たせるのが非常に困難になっていたからだ。
この『特別完全版』は、スペクタクル・シーンで構成されたオリジナル版のインパクトを引きずると、スペクタクルからドラマへの移行に違和感をおぼえるに違いない。しかしこの映画には、オリジナル版とは違う興味深い流れがある。
キルゴア中佐のサーフィンやプレイメートの慰問のエピソードは、突き詰めれば物量によって戦場をカリフォルニアやラスヴェガスに変えようとすることでもある。それは異境をアメリカ化するある種の儀式だ。しかし、ウィラードがプレイボーイのヘリと遭遇し、燃料とセックスの取引をするとき、プレイメートはもはやただの女でしかない。兵士たちはその生身の肉体をプレイメートという象徴的なイメージのなかに押し戻そうとするように見える。さらにフランス人の農園における会話では、アメリカ人が常に敵を想定することで、共通の幻想を生きようとしていることが露呈する。
スペクタクルからドラマへの移行とは、こうしたアメリカ化の儀式がしだいに幻想と化していく流れを意味する。と同時にドラマのなかからは、アメリカ化の儀式とは違うもうひとつの儀式が浮かびあがる。フランス人の農園の場面では、ウィラードの部下の葬式が非常に印象的に描かれるのだ。そして映画のクライマックスでは、今度はウィラードが自ら土地に根ざした儀式を執り行うことによって、アメリカ化の儀式から生まれた悪夢の呪縛を断ち切るのだ。
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