ハリウッドの女優たちのなかで、その個性を対比してみると面白いのがジョディ・フォスターとデミ・ムーアのふたりだ。彼女たちは自分がやりたいことをやれる実力者であり、彼女たちが演じるヒロインには、自分の道を進むがゆえに社会に果敢に挑戦していくようなキャラクターが目立つが、
ふたりが体現する女性像は見事に対照的である。
ジョディの場合は、『羊たちの沈黙』、『ネル』、そして『コンタクト』など、ヒロインの存在からは内面的、精神的な世界が広がっていく。これに対してデミの場合には、『スカーレット・レター』や『素顔のままで』など、ヒロインの闘いはその肉体へと集約されていく。
あるいは、セクハラについて『告発の行方』のジョディと『ディスクロージャー』のデミを比べてみてもそのスタンスの違いが見えてくることだろう。
このふたりの対照的な個性をさらに突き詰めると、ジョディのヒロインが、過去のトラウマを引きずり、それを乗り越えようとするがゆえに内面的、
精神的な世界が広がるのに対して、デミのヒロインは、常に目の前にある現実の壁に真っ向から体当たりしようとするがゆえに、肉体が物を言うことがわかる。
デミ・ムーア主演の最新作『G.I.ジェーン』では、そんな彼女の肉体的な闘争がさらにエスカレートする。この映画で、デミ扮する海軍情報部勤務の女性将校オニール大尉は、海軍選り抜きの男たちでも難儀する超エリート集団SEALの訓練テストに女性として初めて挑戦することになる。
というのも、ある野心的な女性上院議員が、男女雇用差別を撤廃する法案を成立させるために、差別の象徴というべき海軍を槍玉に上げ、ヒロインを苛酷な訓練テストに送り込むからだ。
それゆえに彼女の闘いはひたすらその肉体に集約され、デミはここまでやるかと思わせるほどの壮絶な試練で観る者を圧倒する。しかしそんなヒロインにとって現実の壁は苛酷なテストばかりとは限らない。彼女に訓練テストの機会をもたらした女性上院議員こそ、彼女の闘いにとって最も厄介な曲者となるからだ。
そこで筆者が注目したくなるのが、この映画の監督であるリドリー・スコットとデミの力関係である。この監督は映像派の第一人者であると同時に、『エイリアン』で闘うヒロインを鮮烈に描き、何よりも女たちが悲惨な日常から解き放たれていくロード・ムーヴィー『テルマ&ルイーズ』を作っている。
そういう意味ではこの映画の監督に相応しいように見えるが、実は筆者は『テルマ&ルイーズ』のことを最低の女性映画だと思っている。それは女同士の絆がまったくきちんと描かれていないからだ。ルイーズは世間知らずのテルマのせいで殺人を犯す。
もちろん彼女が引き金を引いた要因は過去のトラウマにあるが、それにしてもテルマの責任は非常に重い。
そんなふたりが本当の友情で結ばれるためには、ふたりの間でまず責任に対する決着をつけなければならない。しかし映画は、ひとりの人間同士に立ち返る瞬間を回避し、
女としての被害者意識による共感だけをバネに疾走しようとする。つまり『エイリアン』のように孤立無援の闘争ならリアルに描けるが、女同士となると過去のトラウマと現実の壁の狭間で、途端に図式が単純化してしまうのである。 |