ウェイン・ワン監督の『千年の祈り』の原作は、女性作家イーユン・リーの同名短編小説だ。北京生まれのリーは、1996年にアメリカに渡り、免疫学の修士号を取得してから創作を志し、将来を嘱望される作家となった。彼女はこの映画で脚本も手がけているが、プレスにはこんな発言が引用されている。
「私にとって、英語で書くということは最も解放的な経験です。政治的・文化的な圧力から、中国語で書くときには意識的に自分で検閲してきた物事を、英語では自由に表現できるのです」
この映画では、そんなふうに言葉が個人に及ぼす影響が重要なポイントになっている。物語は、妻に先立たれ、北京で一人で暮らす父シー氏とアメリカで暮らす娘イーランが12年ぶりに再会するところから始まる。離婚した娘の行く末を案じたシー氏がアメリカにやって来たのだ。しかし、父娘の間には溝があり、会話が弾むことはない。
イーランは、英語で話すと解放されると語る。だが、彼女は、原作者リーのように本当の意味で解放されているわけではない。中国や過去を客観的に見つめなおすのではなく、切り捨てるために、英語に逃避しているからだ。過去を清算できない彼女は、漠然とした自由のなかで自分を見失い、孤独に苛まれている。
北京で高齢者向けの料理教室に通った父は、娘のために腕を振るうが、彼女は中華料理でさえ素直には受け入れられない。父は娘が夫に捨てられたと思い込んでいるが、真実は違う。
一方、父のシー氏もまた言葉の影響と無縁ではない。彼は、娘とコミュニケートするために英語を学ぼうとする。だが、英語が話せるようになったからといって心が通い合うわけではない。シー氏は公園でイラン人の女性と出会い、中国語とペルシャ語にかたことの英語を交えて会話するが、それでも気持ちは通じ合う。
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