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エリック・シュローサーのベストセラー『ファストフードが世界を食いつくす』のなかに、ラスヴェガスに関するこんな記述がある。「ここではまさに、世界的な均質化現象が逆行している。世界じゅうがウォルマートやアービーズやタコベルといったアメリカ文化の前哨基地を建設しているあいだに、ラスヴェガスは過去十年を、世界じゅうを再現することに費やしてきた。(中略)エッフェル塔、自由の女神、スフィンクスなどのレプリカ。ヴェネチア、パリ、ニューヨーク、トスカナ、中世イギリス、古代エジプト・ローマ、中東、南太平洋を模した巨大な建物。ラスヴェガスはとことん不自然で人工的であり、かえってそのために、本物の、つまりほかのどこにもない場所になっている」。
フローレンスに出会ったリチャードが、彼女を誘うのにラスヴェガスほど相応しい場所はない。なぜならそこは、コンピュータ・ネットワークと同じように人工的で虚構性に満ちた空間であり、しかもシュローサーの記述にあるように、世界が集められた中心であるからだ。彼にとっては、そんな非現実的な空間こそがリアルなのであり、彼が滞在するホテルの部屋は、巨大なコンピュータ・ディスプレイといえないこともない。そして、彼の自宅のディスプレイには、市況やポートフォリオとともにポルノ・サイトと繋がっていたように、ホテルの部屋でも隣室からフローレンスが現れ、妖艶なパフォーマンスを繰り広げるのである。
しかし、フローレンスは必ずしも虚構性に満ちたリチャードの世界の住人ではない。彼女には、自分の欲望に忠実に生きるミュージシャンと高級クラブのストリッパーというふたつの顔がある。そこで、ふたりの間でそれぞれの現実が揺らぎだす。さらに、彼らの独占的な空間にジェリーやブライアンという第三者が介入することで、ふたりの間に奇妙な共犯意識が芽生え、恋人同士であるかのような錯覚を生み出してしまう。リチャードは自分の閉ざされた世界から踏み出して、彼女のすべてを受け入れようとするかに見えるが、実際には自分のリアリティのなかに彼女のすべてを取り込もうとしているに過ぎない。だから彼女の生身の肉体と心に裏切られることになるのだ。
ウェイン・ワンは、高級娼婦と売れない漫画家の出会いを発端に、欲望と虚飾に満ちたロスのダークサイドを映しだす『スラムダンス』や、ビバリーヒルズにとり憑かれた母親と彼女に翻弄される娘を主人公にした『地上より何処かで』など、様々なかたちでアメリカの幻想を描きだしてきた。コンピュータ・ネットワークやラスヴェガスを背景とした『赤い部屋の恋人』は、激しく変化する現代のなかにそのアメリカの幻想をとらえた作品といえる。
そしてこの映画は、主人公が属する世界だけでなく、現実と虚構の関係においても、『スモーク』と見事な対照をなしている。『スモーク』のドラマは、たとえ嘘でも、それを信じる人間がいれば事実になり、そこに深い友情が育まれることを暗に物語っている。つまり、虚構が人と人の現実世界における絆をより揺るぎないものにする。これに対して、『赤い部屋の恋人』の男女は、それぞれの現実に隔たりがあり、その関係は現実に裏切られ、最終的に虚構の世界でしか愛し合うことができない。そんな愛のかたちが何とも切ない印象を残すのである。