以前、『リアル・ブロンド』の監督トム・ディチロにインタビューしたとき、彼はこんなことを語っていた。「いまの世の中ではみんな本当の自分なんてどうでもよくて、どう見えるか、他人の前でどれだけそのフリができるかがすべてなんだ。まるで真実が怖いみたいにね」。
『リプリー』はディチロのそんな言葉を思いださせる作品だ。この映画でまず印象的なのは、ジャズであり、ジャズを通して見えてくるものである。監督のミンゲラは、原作で画家志望だったジャッキーをサックスも演奏する熱烈なジャズ・ファンに変え、
さらにリプリーが”即興”の才能の持ち主であることを強調する。
確かにリプリーはどんな苦境に立たされても、即興的な芝居で切り抜けていく。しかし、彼のその即興とジャズの結びつきは、非常に皮肉でもある。日もささない部屋で貧しい生活を送り、それなりにピアノも弾ける人間であれば、当時完全なアウトローの音楽であったジャズに初めて触れたとき、
深く心を動かされても決しておかしくはない。しかし彼は、ジャッキーに接近するためだけにレコードを聴きあさり、知識を頭に詰め込む。
彼の心は最初から閉ざされ、そのことがジャズの即興と彼のそれをまったく対照的なものにしてしまう。ジャズにおける優れた即興とは、他人の模倣から解放され、自分を発見することを意味する。しかし彼の即興は、自分から逃れ、他者になりきるためだけにある。
それでは、ジャッキーはジャズに関して本物なのかといえば、彼も見栄えだけでサックスからドラムに転向しようかと思う程度のファンであることがわかる。
リプリーは、生まれも育ちもまったく違うがゆえに、ディッキーになろうとする。しかし本質的に彼らに違いはない。ディッキーはリプリーに模倣されることによって、自分が心を閉ざし、逃げていることを直視せざるをえなくなるからこそ、苛立ちを覚える。
この映画は、リプリーが一着のジャケットを借りたことから運命が狂い始め、彼とジャッキーはそれぞれに表層に追いつめられ、自分の首を絞めてしまう。そんなふたりの関係が、50年代に設定されたこの映画を現代的な作品にしているのだ。
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