メヒディ・ノロウジアン監督の『レオポルド・ブルームへの手紙』の世界は、非常に緻密な構成によって作り上げられている。この映画では、スティーヴンの物語とメアリーとレオポルドの母子の物語が交互に綴られていくが、その繋がりは決して単純ではない。
スティーヴンとレオポルドの関係は最後まで明らかにされないし、過去と現在が複雑に入り組んでいる上に、具体的な出来事と内面世界が絡み合っているようにも見える。そのため、最初は特別なものに見えなかった細部が、映画に散りばめられた言葉やエピソードが結びついていくに従って意味を持ち、その積み重ねのなかで作品の世界が広がり、深くなっていくのだ。
たとえば、映画が始まってからしばらくして、こんな場面がある。ヴィックの店で働くスティーヴンが、店の裏手でゴミを捨てていると、ウェイトレスのキャロラインが裏口から出てきて、ふたりは立ち話をする。話を終えて店に戻ろうとする彼女は、吸いかけの煙草をスティーヴンに渡し、彼は何かを思うように静かにその煙草を見つめ、やがて一服する。この場面はその時点では特に際立つものではないが、ドラマが展開していくに従って印象的な場面に変わっていく。
メアリーは、レオポルドがまだ赤ん坊のときも、成長して学校に通うようになっても、いつも煙草を吸っている。そんな母親は、レオポルドが、身体に悪いから煙草をやめてほしいと頼むと、息子の気持ちを嘲るように妊娠中から吸っていたのだと語る。そういえば、レオポルドは生まれたときに、肺がちゃんとできていなかったという理由で、隔離されていた。これは、喫煙が実際に影響を及ぼしたということではなく、母親が背負ってしまったものが子供にまで引き継がれたことを象徴的に物語るエピソードといってよいだろう。
18歳で殺人を犯し、15年間服役していたスティーヴンにとって、キャロラインが渡した煙草は、もしかすると初めての経験だったかもしれない。そして、彼のなかには母親の記憶が甦ってきたに違いない。
さらに、この煙草とも関連して、次第に意味が膨らんでいくスティーヴンの言葉がある。彼は、レオポルドに送る手紙のなかで、このように語る。「救いたかった女性を思い出させる人がいる」。この言葉も、その時点ではそれほど意味を持ってはいない。もうひとつのドラマでは、メアリーが生まれた赤ん坊をレオポルドと命名したところで、母子の物語はまだ始まったばかりであり、文通はずっと先のことなのだ。しかし、この言葉はやがて大きな意味を持つことになる。
メアリーとレオポルドのその後が明らかになっていくに従って、われわれは、この母子の状況とヴィックの店の状況が相似形をなしていることに気づく。メアリーとキャロラインは、そこに居たいわけではないが、他に行く場所がない。ライアンとホラスは、彼女たちの弱みにつけ込み、酷い仕打ちを加える。死んだベンと同じように、ホラスの言いなりになるヴィックは、不在の父親を象徴している。レオポルドとスティーヴンは、自分の力で彼女たちを守らなければならない。
そうなると、スティーヴンがヴィックの店に導かれるのは、運命というべきものだったように思えてくる。彼は、運命と向き合い、答を出さなければならないのだ。この映画のインスピレーションの源であるジョイスの『ユリシーズ』は、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしているが、この映画も、スティーヴンが運命と向き合うことによって、神話的な物語になっていく。筆者の脳裏をよぎったのは、『オイディプス王』の物語だった。オイディプスは、アポロンの神託という運命から逃れることができず、父親を殺し、母親を妻にする。
この映画は、メアリーとスティーヴンの視点を巧みに結びつけることによって、『オイディプス王』に通じる物語を演出する。われわれは、メアリーの視点を通してライアンを見ているので、彼はレオポルドの父親である。一方、スティーヴンは、ヴィックの店で避けられない運命に引き込まれていく。そんな視点が重なり合うことによって、この映画からは、父殺しという運命を背負い、それを乗り越えようとする人間の物語が浮かび上がる。
彼は運命をどう乗り越えるのか。そこで注目しなければならないのが、"物語"だ。レオポルドの人生は、彼が生まれる前に始まった。それは具体的には、メアリーがライアンの関係を持ったときだ。しかしこの映画は、それを異なる次元からとらえてもいる。スティーヴンが「ここからが僕の物語」と語ったあとにつづくのは、夫の浮気を確信したメアリーが、書棚に並ぶ本を乱暴に投げ捨てる場面である。教壇に立つ夢を持ち、夫と物語を共有してきた彼女は、その瞬間に物語を失ってしまうのだ。
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