ヒロインの沙織は、あくまで金のために春彦の誘いに乗り、彼女の父親が館長を務める老人ホームを手伝うことにする。その結果、彼女は、これまでの日常と、個性的で陽気なゲイの老人たちが集う世界を往復することになる。そんなドラマからは、様々な境界が浮かび上がってくる。もちろんまず、ゲイとヘテロの境界がある。癌で余命いくばくもない沙織の父親や脳卒中で倒れるルビイなど、死や老いも境界を生み出す。さらに、老人たちの変身願望や家族への想いが、コスプレやアニメのキャラクターまでたぐり寄せる。
この映画では、そうした様々な境界がお盆という時間のなかに集約されていく。老人たちは、ナスとキュウリで牛と馬を作り、親族の遺影におはぎを供え、プールに灯篭を浮かべ、迎え火を焚く。だが、そうした仏事の意味は、境界としての老人ホームに出入りする人物たちの印象的なエピソードによって変化していく。
まず、これまで仲間たちとホームに嫌がらせを繰り返してきた少年だ。春彦に詰め寄られたときに自分の資質に目覚めた少年は、境界を往復し、ホームを手伝うようになっている。そんな彼は、ナスとキュウリの牛と馬を見て、何かの生贄なのかと老人に尋ねる。彼の家にはもはやお盆の仏事はないのだろう。老人は、先祖の霊の乗り物だと教える。それは、ゲイであることとは無縁の、世代のギャップを表わす会話であり、少年から見れば、老人たちは伝統的な仏事を行っていることになる。だが、彼らにとって境界はそれだけではない。
同じ日、一方ではルビイが家族に引き取られ、ホームを去っていく。経営難に陥り、脳卒中で倒れた彼の介護ができない春彦や老人たちは、彼がニューハーフであることを隠したまま家族に委ねるという苦渋の選択をする。そうでもしなければ、彼がホームの世界から外部へと境界を越えることはできない。逆に考えれば、介護が必要な身体になってしまったからこそ、彼は、生きたまま家族と再会することができたともいえるわけだ。ということは、外部から見れば彼らはまさに死んだも同然の存在であり、家族と彼らは生と死の境界で隔てられ、彼らが行う仏事には別な意味が含まれることになる。
これまでの日常とホームの世界を往復する生活をする沙織も、女になりたいという老人の願望に共鳴し、いつしか生と死や現実と幻想が錯綜する異界に踏み出している。お盆は、そんな彼女にとっても特別な時間となる。沙織の父親は、成長した娘を写真のなかの母親に重ねている。3年前に他界したその母親は、死の床で沙織のことを父親だと思い込んでいた。父親に対する沙織のわだかまりは消えてはいないが、それでも彼女は異界のなかで、父親と母親を繋ぐ媒介者となる。
しかし、彼女がいくら老人たちの願望や孤独に共感を覚えても、境界を完全に消し去ることはできない。彼女の現実は、ルビイを引き取った家族の現実でもある。だから彼女は、ホームから外部へと飛び出し、精神的にも肉体的にも自分の現実と境界を確認し、異界からの再生を果たす。そんなふうにしてお盆の時間は、彼女にとって重要なイニシエーションとなる。そして、過去の呪縛から解き放たれた彼女は、現実も境界も受け入れながら、肉体やセクシュアリティに縛られない新たな関係に目覚めていくのだ。 |