メゾン・ド・ヒミコ
La maison de Himiko


2005年/日本/カラー/133分/ヴィスタ
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(初出:『メゾン・ド・ヒミコ』オフィシャル・ブック)

 

 

生と死、現実と幻想が交錯し、せめぎ合う異界

 

 『メゾン・ド・ヒミコ』は、『ジョゼと虎と魚たち』の監督・脚本家コンビの第2弾として注目を集めることだろう。だが筆者がまず興味をそそられたのは、この映画が完成するまでの経緯だ。『メゾン・ド・ヒミコ』は、『金髪の草原』の次回作としてその企画がスタートし、『ジョゼ〜』の製作という中断を経て完成した。しかも当初は、オリジナルの脚本ではなく、『金髪の草原』と同じく大島弓子の原作(「つるばらつるばら」)を映画化する企画だった。そうした背景を確認しておきたくなるのは、この映画の世界が、『金髪の草原』から発展しているように思えるからだ。

 『金髪の草原』に登場する80歳の日暮里はある朝、心臓を患う前の青年として目を覚まし、自分を取り巻く奇妙な現実を夢だと考えることにする。その設定は基本的には原作と同じだが、映画では、彼が暮らす屋敷の空間が際立っていく。彼は、内面は青年でも肉体は重病の老人であり、自由に出歩くことができない。そのために彼が暮らす屋敷が彼の夢の世界となり、そこに現実と夢の境界が生まれる。彼は、ヘルパーとして屋敷に通うヒロインのなりすを、学生時代に憧れたマドンナだと思い込み、なりすは、現実と夢の世界を往復することになる。

 しかも映画では、なりす自身の片想いによって原作以上にこの屋敷という空間が強調される。映画のなりすが想いを寄せているのは、一緒に暮らしている血の繋がっていない弟であり、彼を想うなりすと彼女を姉としか思わない弟の関係は、屋敷における日暮里となりすのそれに重なっていくのだ。そして、弟がなりすの親友と交際するようになったとき、現実に絶望した彼女は、日暮里との夢の世界を選ぼうとする。

 そんなドラマのなかで、屋敷の空間は、夢と現実、生と死が錯綜し、せめぎあう異界となる。なりすは、その異界をくぐり抜けることによって再生を果たす。それは彼女にとって、現実を受け入れ、乗り越えるための重要なイニシエーションとなるのだ。

 犬童監督が『金髪の草原』につづいて映画化しようとした「つるばらつるばら」には、ゲイとして生きる道を選んだ主人公の遍歴が綴られていく。彼の物語は、こんな言葉から始まる。「ぼくは夢と現実の区別がつかない子供だった」。『メゾン・ド・ヒミコ』は、「つるばらつるばら」とはまったく違う物語だが、そんな境界をめぐるドラマへの関心は引き継がれ、『金髪の草原』における境界へのアプローチを発展させるように、独自の世界が切り開かれていく。


◆スタッフ◆
 
監督   犬童一心
脚本 渡辺あや
撮影 蔦井孝洋
編集 阿部亙英
音楽 細野晴臣
 
◆キャスト◆
 
春彦   オダギリジョー
沙織 柴咲コウ
卑弥呼 田中泯
細川専務 西島秀俊
ルビイ 歌澤寅右衛門
山崎 青山吉良
政木 柳澤愼一
-
(配給:アスミック・エース )
 

 ヒロインの沙織は、あくまで金のために春彦の誘いに乗り、彼女の父親が館長を務める老人ホームを手伝うことにする。その結果、彼女は、これまでの日常と、個性的で陽気なゲイの老人たちが集う世界を往復することになる。そんなドラマからは、様々な境界が浮かび上がってくる。もちろんまず、ゲイとヘテロの境界がある。癌で余命いくばくもない沙織の父親や脳卒中で倒れるルビイなど、死や老いも境界を生み出す。さらに、老人たちの変身願望や家族への想いが、コスプレやアニメのキャラクターまでたぐり寄せる。

 この映画では、そうした様々な境界がお盆という時間のなかに集約されていく。老人たちは、ナスとキュウリで牛と馬を作り、親族の遺影におはぎを供え、プールに灯篭を浮かべ、迎え火を焚く。だが、そうした仏事の意味は、境界としての老人ホームに出入りする人物たちの印象的なエピソードによって変化していく。

 まず、これまで仲間たちとホームに嫌がらせを繰り返してきた少年だ。春彦に詰め寄られたときに自分の資質に目覚めた少年は、境界を往復し、ホームを手伝うようになっている。そんな彼は、ナスとキュウリの牛と馬を見て、何かの生贄なのかと老人に尋ねる。彼の家にはもはやお盆の仏事はないのだろう。老人は、先祖の霊の乗り物だと教える。それは、ゲイであることとは無縁の、世代のギャップを表わす会話であり、少年から見れば、老人たちは伝統的な仏事を行っていることになる。だが、彼らにとって境界はそれだけではない。

 同じ日、一方ではルビイが家族に引き取られ、ホームを去っていく。経営難に陥り、脳卒中で倒れた彼の介護ができない春彦や老人たちは、彼がニューハーフであることを隠したまま家族に委ねるという苦渋の選択をする。そうでもしなければ、彼がホームの世界から外部へと境界を越えることはできない。逆に考えれば、介護が必要な身体になってしまったからこそ、彼は、生きたまま家族と再会することができたともいえるわけだ。ということは、外部から見れば彼らはまさに死んだも同然の存在であり、家族と彼らは生と死の境界で隔てられ、彼らが行う仏事には別な意味が含まれることになる。

 これまでの日常とホームの世界を往復する生活をする沙織も、女になりたいという老人の願望に共鳴し、いつしか生と死や現実と幻想が錯綜する異界に踏み出している。お盆は、そんな彼女にとっても特別な時間となる。沙織の父親は、成長した娘を写真のなかの母親に重ねている。3年前に他界したその母親は、死の床で沙織のことを父親だと思い込んでいた。父親に対する沙織のわだかまりは消えてはいないが、それでも彼女は異界のなかで、父親と母親を繋ぐ媒介者となる。

 しかし、彼女がいくら老人たちの願望や孤独に共感を覚えても、境界を完全に消し去ることはできない。彼女の現実は、ルビイを引き取った家族の現実でもある。だから彼女は、ホームから外部へと飛び出し、精神的にも肉体的にも自分の現実と境界を確認し、異界からの再生を果たす。そんなふうにしてお盆の時間は、彼女にとって重要なイニシエーションとなる。そして、過去の呪縛から解き放たれた彼女は、現実も境界も受け入れながら、肉体やセクシュアリティに縛られない新たな関係に目覚めていくのだ。


(upload:2009/06/07)
 
 
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