村本天志監督の『MASK DE 41』を観て、筆者の頭に最初に思い浮かんできたのは、スティーヴン・コーハンという学者が書いた『MASKED MEN』のことだった。プロレスの本かと思われるかもしれないが、そうではない。
これは、50年代のアメリカで危機を迎えた男性性が、当時の映画のなかでどのようにとらえられているかを分析した研究書だが、タイトルのマスクという言葉が意味するものは、この映画とあながち無縁ではない。
50年代のアメリカでは、中流の急増にともない、郊外に家を持ち、一家の大黒柱として会社に勤めるホワイトカラーの白人が、男性を代表する存在となる。しかし、肉体労働から離れ、組織のなかで個性よりも順応性を求められる彼らは、男性性を失う危機に直面する。
社会のなかで支配的になったこの男性の新しい基準は、当然、映画のなかでも繰り返し描かれるようになるが、それは決して揺るぎないものではなかった。つまり、見せかけのもの、マスクとして表現されていたのだ。しかもこの基準は、願望としてのタフガイや男のセックス・シンボルなどのイメージを生みだす要因となり、そうした対照的な見せかけの男性性によって脇に押しやられていくことになる。
映画『MASK DE 41』では、50年代のアメリカを出発点に世界に広まったこの見せかけの男性性の現在と未来への希望が、実に巧みに描きだされているように思う。
このドラマでまず印象的なのは、男と女の力関係だろう。忠男と光雄がプロレス観戦に行くとき、彼らのお目当ては、女子レスラーのサブジェロだ。光雄が現われないために忠男がひとりで観戦する場面でも、リング上で繰り広げられているのは女子の試合だ。
忠男が貴重な退職金で新団体の旗揚げを宣言するときも、団体の目玉になるのは浜田京子であり、彼女の妊娠というアクシデントで旗揚げが水の泡になることも、女の優位を物語っている。その忠男は家でも、妻と娘たちに圧倒され、彼の男性性は見る影もない。
さらに、この映画の親子関係にも注目するために、もう一冊の本を引用したい。保守的なレーガン時代を生きる郊外のティーンの実態を考察したドナ・ゲインズの『TEENAGE WASTELAND』では、親子の関係がスポーツとロックを通して対比されている。
いつの時代も変わらないスポーツは、親と子を繋ぐ最良の絆になっているのに対して、郊外で出口を失ったティーンが熱中するロックは、世代で分断され、絆とはなりえないというのだ。確かに、パラパラに熱中し、留学を考えているハルカと母親は、音楽やダンスで繋がることはできない。一方、忠男と光雄には、あまり会えなくても、プロレスを通した絆がある。
しかし、蛯脇が、学生時代の父親が400戦全敗で、日体大の女にも負けたことを光雄の前で暴露してしまう。光雄は、強いレスラーだった父親に憧れてプロレスを始めたのだろうが、その強いレスラーとは、順応を強いられてきた忠男が生みだしたもうひとつの見せかけの男性性だといえる。
そんな彼が、マスク・ド・小鉄になるということは、順応という見せかけと、強いレスラーだったという見せかけを拭い去ろうとすることを意味する。 |