ベルリンの壁が倒壊し、ドイツが統一され、ソビエト連邦が解体し、冷戦構造が終わりを告げた。冷戦という対立関係の一方の極にあった共産主義体制が崩壊したのだから、冷戦構造の終焉とは、西側の資本主義体制の勝利を意味すると思い込んでいる人もいるかもしれない。しかし、少なくともこの勝利した資本主義は自由を意味してはいない。
いくら資本主義体制とはいえ、昔は自由をめぐって保守やリベラルの対立というものがあった。ところが80年代を通して、アメリカやイギリスを中心とした市場万能の競争主義が猛威をふるい、自由はただの金儲けに成り下がった。要するに、壁を壊したのは市場経済の力であって、その後に広まったのは、グローバリズムという空虚な画一化でしかなかった。
そんな冷戦以後の状況を最も身近に感じとることができる国のひとつがドイツだ。ドイツは西が東を併合するかたちで統一を果たした。しかし、旧東ドイツの人々は、金がすべてで、過酷な競争のなかで弱者が切り捨てられ、個人が疎外される社会に馴染むことができず、ノスタルジーに駆られる。
一方、旧西ドイツの人々も、東西が対立関係にあったときには、自分たちの体制に少なくとも相対的な価値を見出し、支えにできたが、いまでは核となる理想がない消費社会を直視せざるをえなくなっている。
日本で公開される新しいドイツ映画には、様々なかたちでそんな社会的な状況が反映されているように思う。「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」では、死期が迫るふたりの重病患者がまだ見ぬ海を目指す最後の旅に、ギャングの金を絡ませることによって、彼らにとって本当に大切なものを描きだす。
「ラン・ローラ・ラン」では、金のトラブルで絶体絶命の恋人を救うために走るヒロインが描かれる。彼女が走るドラマがゲーム的に反復される構造には、走る行為の一回性が生みだすダイナミズムが損なわれるという欠点はあるが、しかし確かにその反復は、主人公たちにとって何が本当に大切なのかを明らかにしていく。
あるいは、再開発が進む地域に残された古いプールを守ろうとする人々を描く「ツバル」。監督のファイト・ヘルマーは、筆者がインタビューしたとき、こんなことを語っていた。
「そこに集まる人たちは、本当は泳ぐためではなく人に会うために来ている。現実世界に目を向けると、このプールのような場所がどんどん減っている。ヨーロッパでは昔ながらの映画館が消え去り、ポップコーンを食べながら映画を消費するような立派な劇場が増えている」
「再開発はこの映画の出発点ではないけど、プールの存在を脅かすものは何なのかとあらためて考えてみると、いろいろ見えてくるものがある。(旧)東ドイツでもたくさんのものが何も考えることなく壊された」
マティアス・グラスナー監督の新作「CLUBファンダンゴ」は、一見ファッショナブルでスタイリッシュな映画に見えるが、共通する主題がしっかりと掘り下げられている。映画の舞台となる近未来的できわめて人工的なクラブは、現代の消費社会を象徴している。
そこは、人々の夢や欲望に満ちている。モデルを目指すシャーリーは、クラブに入り浸り、オーディション、そして成功の機会をつかもうと必死になっている。しかし彼女には背が低いというハンデがあり、夢はなかなか叶わない。彼女の恋人のルポは、力で強引にのし上がり、クラブのオーナーとなり、裏取引にも手を染めている。音楽とそれが生みだすエネルギーを愛するサニーは、盲目のDJとしてクラブで人気を集めている。彼らはそれぞれの欲望や夢に忠実に生きているように見えるが、果たして本当にそうだろうか。
この映画は、本質的な欲望と消費されるために作り上げられた表層的な欲望の違いを描きだそうとする。あるいは、それはかつて夢見られた自由と消費社会のなかで断片化、類型化、象徴化された欲望の違いということもできる。 |