この映画には、そんな窮地に立つ主人公が何とか金を工面しようと方々を渡り歩くという基本的な流れがあるにはあるが、監督はこの主人公が遭遇する状況を克明に描きだし、それぞれの状況に対する彼の反応が単純な物語とはいいがたい独自の世界を作りあげていく。たとえば主人公は、蛇口から漏れる水滴の音などの日常的な物音や路上でふと目にする光景に敏感に反応し、過去の悪夢がよみがえる。そして、現在の経済的な苦境と過去の悪夢の狭間で苦悩し、唯一の出口である悲惨な結末に向かっていくことになる。
この映画を踏まえてみると、ジョヴィナッツォがこの『孤独の絆』で、ジョーイという存在を通して共通するテーマを追求しようとしていることがよくわかる。彼は2本の映画で、それぞれに深刻なトラウマを背負い、その後遺症に悩み孤立する主人公が、社会の底辺で個々の状況にどのように反応し、現実を受け入れていこうとするのかを見つめ、言葉では表現しがたい社会と人間の繋がり、人間同士の絆を浮き彫りにしようとする。
但し、そうした状況の効果ということでいえば、『孤独の絆』は『コンバットショック』よりも遥かに研ぎ澄まされている。この映画では、登場人物たちの背景などについてほとんど触れられることなく、すべてが状況に委ねられ、状況によって語られていく。3人の男女は、それぞれに気持ちは揺れ動きながらも、最後までそれをはっきり言葉にしたり行動に出ることはない。
それゆえに観客は、最後に兄弟の胸のうちに秘められた真実が明らかになったところから、自然にドラマを反芻することになる。出所したジョーイをトミーが出迎えたとき、それぞれの胸のうちにはどんな想いがあったのか。そこで彼らの表情やその場の微妙な空気がよみがえってくる。あるいは、窓拭きの仕事をするジョーイがデニースと再会したとき、言葉をかわしながら彼は何を思っていたのか。
またこの映画では、登場人物たちをめぐって同時進行する異なる状況が交錯する場面が印象に残るが、そうした場面も反芻によって意味が膨らむ。ストリップ・バーで、ジョーイが喧嘩を余儀なくされているとき、トミーは成り行きで昔の女を抱いている。振り返ってみるとこの場面は、トミーの場合には胸のうちにある罪悪感からの逃避を、ジョーイの場合には彼が過去に対する決着をつけない限り、刑務所の内でも外でも同じような孤立を味わわなければならないことを暗示していたのがわかる。というように状況が、独自の世界を広げていく。
ジョヴィナッツォ監督のこのようなスタイルは、彼が生まれ育った場所であり、この映画の舞台ともなっているスタテン島という土地とも無関係ではないだろう。社会の底辺で生きる人々にとっては、島という孤立した環境はどうにも出口を見出すことができない閉塞的な世界であり、周囲の状況に縛られて生きていかざるをえないように思えるからだ。 |