映画『救命士』は、マーティン・スコセッシとポール・シュレイダーという『タクシー・ドライバー』の監督・脚本家コンビの個性がよく出た作品だ。
ギャングと聖職者という両極端に人々に取り巻かれて育ったスコセッシの世界では、しばしば神や宗教とはあまり縁のない登場人物が、過酷な環境のなかで自己流の宗教観と罪の意識に目覚め、贖罪の念に駆られていく。厳格なカルヴァン派のコミュニティで育ったシュレイダーの世界では、ほとんどの主人公が罪悪感に苛まれ、妄執にとり憑かれていく(シュレイダーの作品については、『ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター』レビューに詳しく書いた)。
この映画では、大都市とそこに生きる人間の闇を際立たせる陰影に満ちた映像と、物語の流れではなく、状況によってすべてを語りきろうとするようなスタイルで、そんな世界が浮き彫りにされる。
救命士は患者を運ぶだけでなく、踏み込んだ医療行為を行う。それでも救えない人命は数多く、たとえ救うことができても、あとは医師の手にゆだねられる。そして患者を運ぶたびに、世の中に溢れるあらゆる悲惨な状況を見つめつづけなければならない。
三日間の出来事を描くこの映画で、主人公フランクは異なる三人の相棒と仕事をする。一人目の相棒は、自分が直面する現実を仕事と割り切り、二人目は仕事に無理なく順応するために常に自分を演出し、三人目は正義感がエスカレートして患者に暴力を振るう。
彼らの姿勢はまったく違うが、ひとつ共通しているのは、患者をすべて同じものとして見ていることだ。それはある意味で患者を個人として受け入れないための防御策だといえる。
ところがフランクは、命を救えなかった少女の亡霊につきまとわれている。そんな彼は映画の冒頭で、死の淵から辛うじて心臓の鼓動を取り戻した男を病院に運び、その男の娘と出会う。少女の亡霊は自分を救わなかったことを責め、病院に運んだ男は自分を生き長らえさせていることを責める。男の娘は心労からクスリに救いを求める。
この映画は、そんな生と死の境界を越えた三者との関わりのなかで、贖罪に駆られ、救いを求めるフランクの姿を生々しく、時に象徴的な映像で浮き彫りにする。そして彼は、一般的なモラルや宗教の教義では割り切れない行動の果てに、ささやかな救いを得ることになる。 |