オタール・イオセリアーニの新作『汽車はふたたび故郷へ』の世界は、『月曜日に乾杯!』や『ここに幸あり』といった近作に見られたような、ほのぼのとしてさり気なく皮肉をきかせた悲喜劇とは一線を画している。それは、この映画にイオセリアーニの自伝的な要素が盛り込まれていることと無関係ではない。
旧ソ連のグルジアで生まれ育ち、映画監督になったニコ。だが、厳しい検閲があるために、思うように映画を作ることができない。そんな彼は、上映禁止になったフィルムを海外に持ち出し、当局に目をつけられてしまう。
八方塞になった彼は、フランスに旅立ち、なんとか映画を撮るチャンスをつかむ。ところが今度は、ビジネスを優先するプロデューサーが創作の自由を奪い、映画を支配しようとする。
イオセリアーニは、グルジアとフランスにおけるこの主人公の苦闘を、同じことが繰り返されているかのように表現している。撮影所のなかで起こる編集をめぐる対立に大きな違いはない。不本意な結果に落ち込むニコと仲間やスタッフが、三人で酒を酌み交わす構図もそっくりだ。
しかし、こうした表現や構成は、グルジアでもフランスでも状況が変わらないことを意味しているのではない。むしろ同じことが繰り返されるように見えるからこそ、状況の違いがさらに際立つのだ。
この映画は、ある試写の場面から始まる。それがどういう試写であるのかは、車でやってきた女性が、「窓」から建物に入ることで暗に示される。映画監督のニコは、検閲官による審査を受ける前に、幼なじみのルカとバルバラに作品を見せ、意見を聞く。筆者が特に窓にこだわるのは、この導入部につづく彼らの少年少女時代のドラマに、やはり三人が窓から出入りする場面があるからだ。
祖国で映画を作る限りにおいては、自由を奪われていたとしても、この窓が象徴するような特別な繋がりがニコの支えとなる。しかし、ディアスポラとなればもはや窓はない。だから、同じように三人で酒を酌み交わす構図があっても、グルジアとフランスのそれには大きな違いがある。実際、イオセリアーニは、フランスの場面では、音楽を使って巧みにそこに窓がないことを示唆している。
さらに、グルジアとフランスでニコが作り上げる映画に注がれる眼差しもまったく違う。グルジアでは、ニコの映画を審査する検閲官たちは、少なくとも作品の意味や価値は理解しているが、トイレでしか本音を吐けない世界ではそれを上映禁止にせざるをえない。
ではフランスではどうか。ニコがグルジアから持ち出したフィルムが、それを見たプロデューサーたちに評価され、彼はチャンスをつかむ。だが、プロデューサーがなにをどう評価しているのかは判然としない。単に作品が共産圏で撮られたことが付加価値となり、興味を覚えているだけのようにすら見える。
一方、チャンスをつかんだニコが脚本を書こうとしても、なにも思いつかず、遅々として進まないエピソードも見逃せない。ディアスポラとなった彼が、誰に向かってなにをどう描いていいのかわからなくても不思議はないからだ。 |