役所広司の初監督作品『ガマの油』では、日本的な死生観が、失われかけた歴史や伝統に目を向けるのではなく、かなりユニークな視点と表現で描き出される。
役所広司が演じる主人公の矢沢拓郎は、一日に何億円もの金を動かす自称デイトレーダーだ。彼は豪邸に暮らし、パソコンのモニターに囲まれ、現実離れした生活を送っている。しかし、息子の拓也の死という悲劇が彼を変えていく。
拓郎は、拓也の友だちだったサブローとともに、息子を弔う旅に出る。深い喪失感を背負うふたりは、富士山や恐山に向かおうとする。彼らがそこにたどり着いていれば、これは伝統的な死生観を描く映画になっていたかもしれない。
だが、彼らが霊山にたどり着くことはなく、その代わりにタイトルにもなっている“ガマの油売り”に遭遇する。役所広司は小さい頃に、田舎で春のお祭りの縁日に、ガマの油売りのおじさんに会ったことがあり、その経験を物語に反映させている。但し、単にノスタルジーの対象として登場させているわけではない。
ガマの油売りは、巧みな口上と演技で人を引き寄せ、怪しい薬を売る。ガマの油は、四方が鏡張りの箱のなかに入れられたガマがえるが、自分の醜さに驚いて流した油汗をすくって煮詰めたものだという。
映画やテレビなどが普及する以前の時代には、おそらくガマの油売りのような存在がどこにでもいたはずだ。たとえばアメリカには、メディスン・ショウ(medicine show)があった。メディスン・ショウでは、寸劇やノミのサーカス、マジック、音楽などで人を集め、“snake oil”と呼ばれる万能薬が売られていた。
厳密にいえば、snake oilは中国の伝統的な薬だが、この言葉が怪しげな薬を意味するようになったということは、メディスン・ショウの広がりのなかで、いろいろいかがわしいものが売られていたということなのだろう。ちなみに、インターネットを万能視するような風潮を批判したクリフォード・ストールの著書『インターネットはからっぽの洞窟』の原題は“Silicon Snake Oil”だった。
ガマの油売りもメディスン・ショウも、売っている薬は確かに怪しいが、売る人間には想像力をかき立てるような独特の存在感がある。彼らもひとつのメディアであり、想像力を駆使すれば、そこにメディアの原型を見出すことも不可能ではない。現在ではメディアといえばマスメディアのことを意味するが、加藤秀俊の『メディアの発生――聖と俗をむすぶもの』で掘り下げられているように、「その原型になっているのは聖俗をつなぐ「霊媒」のことでもあった」。 |